白昼夢中遊行症

2024-013

生き方など選べないのだということに気がつきました。だからどう生きるか、ということはもはや問題ではありません。
人生について考えることがあるとすれば、どうやって堪え忍ぶか、ということでしょうか。
いや耐え難い。
耐えることもできない。そうなると、どのように痛みに反応するか、でしょうかね。黙っているのか、泣き叫ぶのか、じたばた暴れまわるのか、背徳に走るのか、神に祈るのか、あるいは呪うのか、見境なく人を殺すのか、建物に火をつけるのか、風説を流布するのか、インサイダー取引するのか、週刊文春のゴシップ記事にうつつをぬかすか、漫才の未来について受け売りの持論を披瀝するのか、昔は良かったと、生まれる前の世界について勝手な空想を膨らますのか、どこにもない国に希望を馳せるのか、異世界転生するのか、あるいはその空想をするのか、暴飲暴食するのか、陰謀論を信仰するのか、末法思想を再興させるのか、インドに行っていないのにインドの人生観を否定するのか、カレーライスにこだわるのか、日記ブログを書くのか、株式会社はてなに入社するのか、情報漏洩するのか、V-Tuberになるのか、キャンプに行くのか、滑落死するのか、駅のホームを通過する急行電車に吸い寄せられるのか、落石に当たって死ぬのか、やりがいを搾取されるのか、退っ引きならないところまで追い詰められて土壇場で自死を選ぶか、比喩じゃなく人生終わろうとしている老人を羨むか、人生なにもいいことなかったと嘆きながら死にゆく老人を羨むか、身の回りのありとあらゆる生物も非生物も性的対象化するか、なけなしの給与に対して上がり続ける物価によって、相対的に価値が減っていく自分を認識するか、体調の悪さにようやく死神が自分のもとにもやってきたのではないかと心を踊らせるか、遊びという文化にただ一つ幻のような希望を託すか、結局のところ商業主義がありとあらゆる価値を摩耗させると嘆くのか、そのようなシニシズムに決まって行き着く性向にうんざりさせられるか、やはり死ぬしかないと息巻くか、やっぱり死ぬしかないのだと、再度確認するのか、希望はあるのか、嘆きのために生きるのだと自分自身に飛びついても言った人が、結局は死を選んでしまったことを反芻するか、「死」のつもりが「詩」になってしまったり、その逆が起こったり、そうかと思えば「私」になったり、突然、万葉の時代の人々に思いを遣ったり、中公新書物語シリーズが物語になっていた試しがないと憤るのか、句点の打ち所がわからなくなるのか、やけに饒舌に捲したてるのか、将来という言葉を聞くたびに暗澹たる気持ちになるのか、こんな苦しみも宇宙の塵だと達観したふりをするのか、結局のところ苦しみからは逃れようもなく、いかなる反応を示したとしても、痛みが和らぐわけでもないので、もう黙っていよう。