白昼夢中遊行症

断想

「死にたい」と言ってはみるものの、死について真面目に考えたことはない。少なくとも実際に死のうと思った試しはない。死について、私は依然として抽象的にしか考えられず、私は「オー・マイ・ゴッド」と言うみたいに「死にたい」と言う。私が死について知っていること、数年前に見たあの顔。生きている人から、何かが差し引かれているような、あの顔。魂の存在を支持したくなる気持ちもわかるな。死は生の完了である、なんで格好つけてかどうしてか、言ってみたこともあったっけ。思いつきとはいえ、これはそこまで的外れでもないとは思う。ただ、そう言ってみたところで、何かが変わることはない。いずれにせよ死ぬ。小説が未完に終わることはあるけれど、生が完了しないことはない。死ぬことは、悲しいというよりむしろ寂しい。かつてのベトナム人の友人は、死についてもいろいろと、彼の世界観を話してくれたような記憶があるけれど、彼のそれは実際の経験に根差したものであるぶん、しっかりしたものだと思った。いまはもう、何も覚えてないけれど。私はいろいろな大事なことを聞き流してきた。あまりに多く、聞き流してしまっていたように思う。彼とまた会うことはあるのだろうか。死ななければ、また会うこともあるだろうが、どちらかが死んでしまったらもうその望みもない。死んだら墓に1,000円でもいいから小遣いをおくれ。そう言って祖母は私に小遣いをくれた。私はこの、墓前に何かを供える行為にまったく意味を見出せないながらも、これをしないわけにはいかない、とも思ってしまった。霊魂など存在しないのだが。しかしベトナムの彼は、彼の祖父が死ぬ前、いや死んだすぐ後だったか、祖父の霊と会ったと言っていたっけ。彼はその体験談とともに、自分は魂の存在を信じる、と言っていた。確かにな。理屈なんていいじゃないか。見た。だから信じる。これほどシンプルなことはない。ここに理屈を加えると、夢だとか、幻覚とか、見間違えとかドッキリとかってことになる。しかし、世界の真実よりも、個人にとっての真実の方がより重視されるべきこともあるだろう。いったい何の話なのか。まあ、ええか。