白昼夢中遊行症

断想

今の状況が続くのであれば、わたしはそう遠くないうちに風邪でも引いて、しかし風邪を引いたとしても家で寝ていることもできないので屋外で眠り、この寒さでさらに拗らせて死んでしまうだろう。まったく、なんてしょうもない人生なのだろう。「しょうもない人生やった」と言い残してどこかへ行ってしまった人がいたっけ。その人が自分の人生を本当にそう評価していたのかは知らないが、しょうもなくない人生というのがどういうものなのか、それがありうるものなのかも、わたしにはわからない。

死んでしまったほうがいい。ほとんど毎日、そのことを考える。死んでしまったほうがいい。この日記の最初の読者は、突然消えてしまった。死んでしまったのか、生きているのか分からないけれど、突然消えてしまう理由として、一番よく説明できるのは死んでしまったという考えだった。一番よく説明できるからといって、それを支持する気にはなれない。できれば、どこかでうまくやっていて欲しいと思うけれど、それも身勝手な願いだ。わたし自身、死んでしまったほうがいいと思っているのだから。

わたしは、どうしてまだ生きているのだろうか。生きることは悪い習慣である、なんて言ったこともあったっけ。いまでも、わたしの中にはその通りだと思うわたしがいる。いや、そう思っているわたしがわたしの中のほとんどを占めているのかもしれない。

生きることになんの意味があるのだろう。この宇宙に意味はない、とわたしが言ったところで、激怒するひとは少ないだろう。少なくともこの国では。しかし、君の人生について同じことを言った場合、どうだろうか。まあ、そうだろうね。と言うのが大半だろう。もうみんなはっきりと知っているのだ。本当に? 自分の人生に意味などない、と言うのは簡単だが、いったいそれはどういうことなのだろうか。これは人生の意味を問うのと同じようなものだ。人生の意味が不可解であると同じく、人生の無意味さも不可解である。わたしにはなにも分からない。なにも答えを出すことができない。

わたしは死んだほうがいい。本当にそう思っている。しかし、生きることが無意味なら、死ぬことにだって意味はない。どちらにも意味がないのなら、もうなんだっていい。そんなことを言いたくなるのは、悪しき習慣を克服するのが、単に面倒なだけなのだろう。

まったく、一体わたしはさっきから何をごちゃごちゃ言っているのだろう。わたしはひどく疲れているのだ。わたしは歩き疲れてしまった。一日中、歩き通しだ。風邪を引いたとしても、安眠は許されない。歩くことだけが、わたしに許された行為なのだ。わたしは疲れてしまった。わたしはやがて、斃れてしまうだろう。わたしはその時が来るまで歩くだけ。待ち望むでもなく、恐れるでもなく。