白昼夢中遊行症

断想

昨晩は夜になっても気温が下がらず眠れなかった。夜が明けて気温が落ちてきた頃にようやく眠ることができた。6時間ほど経って目が覚めた。いつもならばもっと眠らなければ目覚めることはないのだが、その頃にはまた気温が上がり、とても眠っていられる状態ではなかった。おれは起きてその日のノルマを解消し、手持ち無沙汰になった。やらなければならないことは色々あるはずなのだが、おれは何かをする気にはなれなかった。そもそも、人生においておれは何をしなければならないのだろうか。おれ自身、宇宙においては無益で無意味な存在であるというのに。

宇宙が無意味であると同じように、個人もまた、意味をなさぬ存在だ。おれもまた、その一般的事実を免れるものではなく、無意味な存在だ。おれは大学に人よりも長い期間在籍しているが、そこでいったいおれの中に何が積み上げられてきただろう。受けた講義の内容はそれが単位に変わった途端に用をなさなくなった。読んだ本はおれにひとときの充足感を与えるほかにはなにももたらさなかった。おれが関わってきた人たちはおれのもとを去り、というか、おれのほうから去り、それらが残していったものはといえば、おれの人間関係を築くことへのトラウマをより深くするものでしかなかった。おれの過ごしてきた4年間に意味はなく、それ以前もまた意味はなく、おれが生きるこの瞬間もまた、こうして意味をなさぬ文章を書き付けるのに費やされるばかりで、これより先のどこかには、死が待っているのだ。いや、死が待っているのではない。おれが死を待っているのだ。講義のない日には寝坊をし、ベッドで横になりタブレットの画面を眺め、あるいは近所の人が時折煙草を吸うために外に出てくるのを聞いている。こうして一年中を過ごすのだ。おれは待っている。じっと死ぬのを待っているのだ。こうして、この世に存在し始めて以来、ただ死を待つのみである。それが人間の一生である。人間にかぎらず、その他の動物、非生物、地球、そして宇宙もまた、これと同じである。この生成と消滅の一連のプロセスにいったい何の意味があるというのか。この問いかけもまたむなしく、わかりきった答えを再び確かめたとして、それが意味することは変わらない。それが無意味であることに変わりない。