白昼夢中遊行症

断想

しばらく何も書いていないと、書き方を忘れてますます書きづらくなる。どういうわけかこのひと月、この日記の更新が一週間以上途絶えたことがなかった。そのおかげで、まめに日記を書く習慣がついてきたような気がしてきたんだが、こうして一週間近く間が開くと、何をどうやって書いていたかを忘れてしまう。自分にとって文章を書くということがどういうこのなのかがぼんやりとしてくる。いや、そんなことが自分にとって明確だったことなんて一度もないのだけれど。

ここ一週間は、あの無意味な四連休のおかげですっかりと気が抜けてしまって、いろんなことに手がつかなかった。なにをやるにも気が進まないなと思っているうちに、気づけば週末だ。というか、月末だ。そう、月末。日本の西側半分は梅雨が明けたらしい*1

いろいろと期末の課題やらなんやらを課された。どれもやり始めさえすれば、思いのほかたやすく終えられるものだとわかっていても、おれはこれらの課題にとりかかる気がまったく出てこない。こうした、なんとなく気が進まないという気持ちにどうつきあうかという点が、おそらくおれがこの先の人生をうまく生きていけるかどうかに関わる大きなポイントだと思われる。しかし、おれはおそらくこの気持ちをすっかり退けてしまうようなことはしないだろう。おれはこの先も変わらず、こうした気持ちになんとなくながされて、自分の立場をどんどん危うくしながら生きていくのだろう。なんとなく、クリスタル

さて、なんか最近日記を書いてないなという思いでこれを書き始めてしまったから、書き始めるということだけで満足してしまって、これ以上何かを書く気がしない。しかしこうして思うのは、このぼんやりとした意識を少しでも明晰にするには、書くということしかない、少なくともおれにはそれしか思いつかない、ということだ。何かを書いて、その過程で書かれた文字を、文章を読んで、はじめておれは何かを考えることができるのだ。そして何かを考えることを通してはじめて、おれはおれという存在を反省することができるのだ。そうして、なんとなく気が進まないにしても、そのなんとなく気が進まないということに自覚的になることで、少なくとも単になんとなく気が進まないというのではなく、なんとなく気が進まないのだということを知ったうえで、あえてその気持ちに流されることができる。そうすれば、自分の不幸を自分自身で選んだものとして受け入れる心構えというのができる。そして、おれが思うに、心構えがあるというだけでもずいぶんと違うものなのだ。