白昼夢中遊行症

断想

こうして、布団に入ってからほぼ毎日何かしら書くようにし始めてから、いくらか経った。

正直なところ、このようなことに、なんの意味もないと思う。日記を書くことは、その日あったことを保存しておくことだという人もいるけれど、おれのこの記録には、その日あったことが保存されていない。

じぁあ、日記じゃないんじゃない? たしかに。
だが、それならこれは一体なんなんだ?

このブログがなんなのか、わからないまま何年か経った。今もなお、これがなんなのか、正直なところよくわからない。続けていて、自分のためになっているのかも。

少なくとも、睡眠時間はこれで削られているように思う。もしかしたら、文章を書かなければもっと眠れていないかもしれないという説も、なくはないけれど、よくよく読み返してみると、下手になんか書き始めちゃったから眠れねぇという悲鳴がちょくちょく見られる。やっぱり、これは睡眠時間泥棒だ。

この文章も、もっと手短にするつもりだったのだが、だんだんと調子に乗り始めてきている、ような気がする。
といって、なにか良いものが書けるわけでもない。ただただだらだらと、何かを書き続けているだけ。なんの意味もなければ、なんの話題の広がりもない。あるのは反復だけ。

とか言って、調子に乗り始めたということに自ら気づくと、途端に転落する。何だったんだ、あれは。

ところで、文字にすると忘れがちなのだが、言葉には必ず声が伴う。いや、文字にならない声こそ、言葉の最も大切なものなんじゃないか? それをいかにして文字で表現するかが、現代の詩の重要課題のひとつ、なのではないか?

なんて、なんて言ってんだおれは。まったく、口から出まかせ。普段、詩のことなんてすこしも考えないというのに、なに言ってんだか。どちらかというと死について考えがちだったおれだが、それも最近はあんまり。だんまり決め込んでいるのだ、おれの頭の中の声は。

変換というのは厄介だ。思う通りの文字が出てこない。「詩」と打ち込みたいときに「死」と変換されたかと思うと、「死」について話したいときに、「詩」が出張ってくる。「鍛冶」を「鍛治」と誤って書く人が、それどころか、そのようなものだと勘違いする人が増えるのも、変換の罪悪だ。ひらがなで書きたい部分も、無理やりに漢字にしてこようとしてくるのも気に食わねえ。文字は紙に手で書くべきなのだ。ただ、紙に書くと管理が面倒だ。では、デジタルメモ帳は? Kindle Scribe(だったっけ)のようなのも最近は増えてるが、あれは紙とデジタルのいいとこどりに見せかけて、紙とデジタルの悪いとこどりなんだってさ。そんな意見もある。おれの中に。

何でもいいけど、そんなことを考えていたわけではないのだ、今日という日は。こんな記録は、この日を記録したものではないという意味で、日記でも何でもない。くそ、「もの」と「者」と「物」の使い分けくらい、しっかりしやがれ、とはいえない。機会にいったってしょうがねえ。「言ったって」という意味で打ち込んだ「いったって」を「行ったって」にしたがるのも癪に障る。「癪に障る」の「障る」を「触る」にするな!! チクショウめ!!!

あと、「機械」を「機会」に変換するな!!

Iya ochitsuke ore. Machine ni kitai suru no ga warui. Nita you na koto wo souieba kyou ha kangaete itakke. Algorithm ni jouhou no senbetsu wo tayorikitta zetto generation ni tsuite no kiji wo mite.

TOKORODE KORE HA YOI. ROMA-JI NIKKI STYLE. ISHIKAWA TAKUBOKU NI NATTA KIMOCHI NI NARERU. HENKAN NO WAZURAWASISA MO NAI.

However, I've not been read TAKUBOKU's "ROMA-JI DIARY".

To, son'na hanashi ha ii. Iya, don'na hanashi wo sureba ii? Mou, tokuni hanasu koto ha nai. Somo-somo son'na mono ha saisho kara nakatta. Mattaku, mai-nichi mai-nichi muda na kotoba karishi tale.