白昼夢中遊行症

家に帰る道すがら、考えていたことがとんでもない自己欺瞞だったことのやるせなさについて

おれは一度、真っ白に立ち戻ってみる必要がある。と思う。
つまりどういうことかって、まあ解かんねえわな。
おれもよく解かっちゃいねえんだもの。

でも思うのだ。おれは真っ白なおれを忘れちゃいけない。
おれ自身の形を忘れちゃいけないと。
しかし、おれ自身とはなんだ? その形とは?

もっとしっかり、もっとはっきり言葉にしないと。
そうだ、おれは虚勢を張っていたのだ。
虚勢という言葉がしっくりこないのなら、見栄を張っていたと、あるいは、背伸びをしていたといっていい。

要するに、おれは自分を本来よりも大きく見せようとしてたように思う。
そのためにつき続けてきた、とるに足らない小さな嘘偽りが、おれを汚していた。
おれはそれを、すっかりきれいにしてしまいたいと思った。
それで、「真っ白に」といったのだろうか。

自分を自分でなくすのは自分自身だということは、よくよく知っていたはずだ。それでも、少しずつ、気づかないように気づかないように、自分で自分をだまし続けてきてここまで来てしまった。いまさら辛くなったようだが、呆れるね。

ともあれおれは、もっとちっぽけなはずだ。もっと取るに足らないはずだ。もっと偉くないはずだ。もっと愚かなはずだ。もっと弱いはずだ。誰かに意見なんてできないはずだ。高いところは見えないはずだし、広い見通しなどないはずだ。何はともあれ黙っているべきだ。間違っても頭角を表すべきではない。誰かに頼られるべきではないし、やはり黙っているべきだ。

おれは、ずけずけとものを言うほうだ。だが、そのぶんそれは当を得たものでなくてはならなかった。そしてそうした物言いをするおれは、やはり何においても正しくなくては示しがつかない。そんなことを思っていた。そう思っていたおれが間違っていたのだと、今になって気がついた。

おれは正しくなくてもよい。なぜなら、おれは別に、当を得たことを言う必要はないからだ。なぜその必要がないのかといえば、おれはなるべく沈黙を選ぶべきだからだ。

そもそもおれはどうしてそんなにもいろいろと口を出すようになったのかといえば、そうしないとおれがスッキリしないからだった。なんというか、おれの周りでなにかうまくことが運ばないものがあるのを見ると、なんだか無性にむかむかしてしまうのだ。おれがなにかすれば、うまくいくように思われる場合、なおのことムカついた。ムカつくので口出しして、それで偶然にもうまいこと行くようなことが、これまで何度もあって、そのたびおれは誤った自己評価を重ねていた。それだけではなく、他からの評価もどんどん間違ったものになっていった。いつしか失望が怖くなって、次々と小さな嘘を重ねていくようになったのだ。誰かの役に立ちたいとか、そんな欺瞞を少しでも受け入れようとしたおれの姿を、ふと目にしてしまった。それで我に返る。ひどい嫌悪感。ああ、もう嫌だ。嫌になったのだ。ムカつくけれど、どうにもならないこともあるのだ。俺は黙して耐えることを覚えなくてはならない。そして、もっと控えめでいることを。

おれではないおれを、好きになることはない。おれはちっぽけなおれを愛する。偉くないおれを愛する。愚かで弱いおれを足する。意見などせず、空虚な理想もなく、視野狭窄したおれを愛する。

これは価値の転換だろうか? ルサンチマンだろうか? 黙っていろよ、おれ。大人しくしていろ。

示しがつかないのなら、その必要がないところに控えているのだ。そもそもおれは、そんなところに出てくるべきではなかったのだ。でしゃばってはいけない。おれは大人しくしているべきだ。黙っているべきだ。真っ白であるべきなのだ。……結局のところ「真っ白」って、なんだ?