白昼夢中遊行症

断想

ブログ管理画面の連続投稿日数が続いているのを見てしまうと、なんだかこれを途切れさすのが惜しいような気がしてしまい、特に何か書くことも見つからないというのに、何かを書かなければならないという気になってしまう。こうした強迫観念に駆られたとき、おれはあたかも他に選択肢がないように振る舞う。しかし、そうはいってもおれはまぎれもなく他の道を選ぶことができるのである。おれには自由があるからだ。おれの自由への素朴な信頼は、自分の行為を自分で選ぶことができるのだという信念を生じさせる。おれは自分の意志でこれを書かないこともできるはずなのだ。

しかし、自由とは実のところ、いったい何なのだろうか。自由とは、自分の行為を自分で選択して振る舞うことだろうか。たしかに、おれは自分の行為を自分で選択して生きている風に振る舞っているけれど、この行為の選択には自由があるのだろうか。おれ自身は自分の振る舞いを自分で決めていると思い込んでいるが、おれのこの行為の選択は、実はもともと他に選択の余地のないものだったのかもしれないという疑いを、どうして無視することができようか。

人間が(少なくとも身体的には)物理的な存在であるというのは誰もが認めることだろう。そして、物理的な事物というのが、すべて自然科学的法則の支配下にあるということも、今やほとんどの人が信じているだろう。ところで、こうした自然科学の法則はさまざまな事象を、その法則の厳格さから、正確に予測することを可能にしている。たとえば月の満ち欠けだって、天体の運行についての知識にもとづいて予測されているのであり、その天体の運行についての知識というのは、自然科学の法則が厳密だからこそ信頼のおけるものなのであって、もしその法則が例外を認めるものなのだとすれば、満月の翌日に三日月が見えることも何の不思議もないこととして捉えられねばならない。しかしそうではない。月の満ち欠けはだいたい30日くらいで一周するものだし、もしそれと違う動きを見せたならびっくり仰天するだろう。同様に、マッチを擦ったら火がつくことをおれたちは信じ切っているのであって、風が吹いていたりマッチが湿っていたりして火がつかないこともあるかもしれないが、少なくとも、それによってマッチが消滅したり、マッチがカエルに変身したりすることはないと信じている。

とすると、人間の行動もまた、それを司っていると考えられる人間の脳のはたらきが物理法則の下に包摂されているがゆえに予測可能で、つまりそれ以前の世界の状態に決定されていると考えることは不自然なことではないだろう。おれの意志決定のすべてが、ずっと前から決められていて、それどころか、これから先、死ぬまでずっとそれが決定されているというのなら、いったいどこに自由があるといえるのか。今おれがこの文章を、あんまりうまく書けていないな、とか思いながら、とくにに見直すこともなく書いているのも、おれが生まれるずっと前、世界ができたその瞬間から決められていたのだとすれば、おれに何の自由があったというのか。

しかし、どうやら世界はそこまで厳密じゃないらしい。ミクロの世界に目を向けると、そうしたことが成り立っていないケースが考えられるからである。おれもよく知らんが、量子力学の世界では確率によって説明される事象が現に起こっているのだとか。シュレディンガーの猫とかいう思考実験の話は、今や名前だけが一人歩きしていて、誰もが名前を聞いたことがあるだろう。おれもその名前だけを知っている人なのだが、これがその量子力学における蓋然性に支配された世界観をよく表しているらしい(この思考実験自体は量子力学を批判するためのものだったらしいが)。おれはそれ以上のことを知らない。知らないが、つまるところ、世界のあらゆる事象は必然的に成り立っているわけではなく、一部偶然を許容するというのだ。だとすると、おれたちの自由もこうした偶然性に帰属させれば守られるのではないか?

しかし、その期待は裏切られる。自由をそうした確率的なものと考えるならば、依然としておれたちには何かを選ぶ権利などないからである。おれが今日、この文章を書くにも、あるいはその代わりに半裸で逆立ちして町内一周するにも、おれにそれを選ぶ自由はなく、すべてはおれにどうにかできる範疇外で決まってしまうのである。この場合、サイコロの目に委ねられるという形で。

おれが自由について知っていること、考えられることは少ない。この文章も、おれがどこかで読んだ本の薄らぼんやりとした印象や、誰かに聞いた話のおぼろげな記憶にもとづいて書いているにすぎない。とはいえ、自分が自由であるか否かというのは、おれにとって重大な関心事のように思える。というのも、もし自由がないとすれば、おれはこのおれとして生きるこの人生を何ら真に受ける必要がなくなるからだ。おれがおれの生まれる遙か昔に決められたあらすじにしたがって生きるだけの存在だとすれば、あるいは、おれの意志決定のすべてがサイコロの目によって決められているというのなら、おれは自分の人生の意味について何ら悩む必要はないのである。どちらにせよ、おれがこの世に存在したことからして、一切が偶発的なことにすぎぬのだから。

他方、意志決定の自由を認める余地がどこかにあって、おれはおれの人生を自らの手でどうにか選択していかねばならぬのだとすれば、おれはこの人生を呪わずにはいられない。事実、おれはそれを信じているがゆえに、おれは自身の選択が誤っていたことの責任を自身に帰属させるのであり、それゆえに今でも、そしていつまでも過去のあらゆる選択の間違いを悔やんでいるのだ。

この文章も書くべきではなかった。おれはこのブログの連続投稿日数をまた一つ積み上げたことで、また明日もおなじように書かなければならないという強迫観念にさらされなければならないからだ。とはいえ、おれには書かないことを選ぶ自由はなかったのかもしれない。とすると、明日もまた、おれはあらかじめ決められたレールの上を進むのか、あるいはサイコロの目によってそれを決めるのかにすぎないのであって、連続投稿日数をこのまま伸ばし続けるか否かの決断に悩まされる必要はないのである。