白昼夢中遊行症

断想

おれはいかにして考えるということができているのだろうか、ということについて考えていたら、おれは自分が何を考えているのか分からなくなってきた。

おれは自分が考えているとき、何をしているのだろうか。というか、何をもって自分が何かを「考えている」とみなしているのだろうか。自分が何かを考えているのに気づくのに、ひとまず必要なのは、何かを考えているということと、それについて気づくことだろう。自分が何かをしていることに気づくこと、というのは、ここでは後回しにしてよいだろう。ここでおれが一番関心を寄せているのは、「考える」とは一体どういう働きなのだろうか、ということである。

正直なところ、おれにはこれがさっぱり分からん。とりあえず、いえそうなのは、これは身体的か心的かでいえば心的なもので、どちらかといえば能動的に行われることで、言葉によってなされるときもあれば、そうでないときもあるということくらいか。

しかし、考えることというのが完全に能動的な振る舞いかといえば、そうでもないように思える。誰でも、夜眠るときに死後の世界とか、宇宙の果てとかに思いをはせて、眠れなくなったことがあるのではないだろうか。明日も朝早いというのに、そうしたことについて考えることをやめられず、考えるのをやめられないせいで、眠れない。こうしたとき、自分は「考えさせられている」といいたくなるように思われる。もちろん、これは何か教訓めいた話を聞いて、「考えさせられますなあ」とかいうのとはどこか違ったもので、もっと病的な、強迫的な意味で「考えさせられている」のである。こうしたことがありうるという点で、考えることというのは、みずから自発的に行う場合と、そうでない場合があるように思われる。

また、考えることが心的な働きであるとはいえ、身体的な運動を含む形でそれをすることも可能なように思われる。おれは今、自分が考えることについて考えている(つもりになっている)のだが、このとき、おれは自分の頭の中身を言葉としてブログ投稿画面に打ち込んでいる。そして、それを見ながら、アウトプットされた自分の考えに逐一修正を入れながら考えている。他にも、話しながら考える、というのもできるだろう。おれ自身は苦手なのだが、人によっては話ながら自分の発した言葉を耳で聞きながらそれから次にいうべきことを考える、というようなことをする人もいる。考えるというと頭の中で完結しそうな働きだが、また、おれの今の行いに戻ってみると、おれはこの手を止めると同時に考えも止まってしまうのであって、どれほど身体的な働きが重要かはさておき、いくらか身体的なものを伴うものだともいえそうなのである。

ここまで、考えるという振る舞いについて考えてみたが、おれにはやはりおれが何を考えているのか、そもそもおれは考えられているのかどうか、分からない。このまま考え続けても、思考の泥沼に入りそうな予感がしているので、今はもう、考えるのをやめることにする。そうはいっても、おれは考えることをやめられそうにもないのだが。こうしたとき、おれは考えさせられている。しかし上では、手を止めれば考えも止まる、とも書いているのであって、おれのなかではすでに混乱が生じているのである。