白昼夢中遊行症

断想

ふと、運命論と決定論の違いについて気になって、本屋でそれらしい本を立ち読みした。それによると、およそこういうことらしい(とはいえ、所詮は立ち読みのつまみ読み程度の理解であるので、それが正しい理解であるかどうかは保証しないでおく)。運命論にも決定論にも色々と違いがあるらしいのだが、それはさておいて、ある出来事について考えた時、その出来事がそれ自体として必然性を持つと考えるのが運命論であり、その出来事が先行する他の出来事によって規定されていると考えるのが因果的決定論である。ループもので、何度繰り返しても不可避なのが運命である。それに対して、ループの中でどうにかしてハッピーエンドを掴み取ることができる(かもしれない)のが因果的に決定された出来事である。因果的決定論ではその必然性を因果性に依存している。原因となる出来事がなければその出来事は生じなかったと考えられるのが決定論である。しかし、実際には自然法則の厳密な法則性にすべての出来事の生起が規定されているため、その出来事が生じることは決定しているのだが(人間の意志というのがどれほど力を持つのか、というのが繰り返す世界からなんとか活路を見出して、望ましい結末を掴み取るための鍵となるであろう)。それに対して、原因とされる出来事を取り除いたとしても、その結末は別の仕方で生じたであろう、というのが運命論なのである。例えば、愛する人の死を受け入れられない天才発明家がタイムマシンを発明し、過去に戻ってその人の死を食い止めようとするが、何度やってもその人の死を阻止することができない、というのが運命である。このとき、愛する人の死は様々な仕方で生じる。例えば馬車に轢かれたり、不運にも銃撃戦の流れ弾に当たったり、突然心臓発作を起こしたり、などなど。……

そんなことが書いてあったような、はたまたこれはおれの単なる空想か。そもそもおれはどうしてこんなことが気になったのか。おれが読んだ本とは、おれが夢に見た幻かもしれない。何か運命とかそういうのに関連づけた上手い一言で落ちをつけるといったこともなくこの文章は終わることになる。

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ここ最近、青空文庫にある文章を作者の50音順に読みあさっている。読み漁っているといっても、もちろん、自分にとって読みづらいもの、専門外のもの、毫も興味が湧かないものは迂回しているが、それでもなるべく全て読むようにしている。一体この試みがひと段落するのはいつのことになるのか見当もつかないが、こうでもしないと出会うきっかけのなかったであろう文章を読むというのはわりかし楽しいことである。しかし、そればかりやっているせいでその他の本が読めないでいる。家に積まれた本や、図書館から借りてきた本、電子書籍で購入した本など、なかなか結構読むべき本には困っていない状況なのだが、紙の本だと両手が塞がってしまうのに対して、スマートフォンを片手に持つだけで読めるというのが手軽で、こればかり読んでしまう。また、縦書きよりも横書きの方が自分にとっては読みやすい、というのもあるかもしれない。日本語で書かれた本は多くが縦書きで、電子書籍でさえ、縦書きを強制されるケースがほとんどだ。青空文庫のリーダーアプリも、縦書きに表示するという倒錯した機能を持っているが、私としては横書きで読みたい。そのため、ブラウザのリーダーヴューの機能を使って読んでいる。これが結構読みやすいのだ。しおりとかそういった機能がないのが不便に感じることもあるが、基本的には満足している。私は四六時中文字を読んでいないと落ち着かない類の人間であるが、その渇望を書籍でよりも、ネットニュースとかまとめサイトとか、知らない人のブログとか、そういうので満たしてきた量の方が多いから、横書きの文章というのにより慣れ親しんでいるのだ。いまは芥川というア行のひとつ目の山場に差し掛かっている。現在350あまりの文章が公開されていて、しばらくは彼の文章ばかり読むことになるだろう。しかし、それよりも前に、貸出期限の迫った図書館の本を読まなければならない。だが、手軽さからしスマートフォンで読める方ばかりに手をつけてしまう。電子書籍もあるのだが縦書きのものばかりで、これもまた一段優先度が落ちてしまう。私はどうしたらいいいだろう。このまま芥川を読み続けるなら、紙の書物は一向に読めぬままだろう。しかし、紙の書物に取り掛かるとなると、当分は芥川を断念せねばならない。より楽な選択肢が存在する限りそちらを選ぶのが私である。どっちも掬う、なんて器用なことができないのが私なのである。したがって、紙の本を読むならば、他方を断念するほかないのだ。そして、読まなければならない紙の本は山ほどある。再び青空文庫を片端から読みあさるという試みに手をつけられる未来は一向に見えない。……

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試しに、眠りの際で私に語りかけてくる声に耳を傾けていたら、眠れなくて困る。やはり睡眠導入剤が必要か。しかし、眠れぬ夜のない人生に意味はあるのだろうか? 私のように、もともとなんの楽しみのない人間から不眠という人間の根源を取り除いたとして、いったいなにが残るというのか。

目が冴えたまま、夜が明けた。すでにカーテンの隙間から光が差し込んできている。まだ眠る試みを続けるべきか、もうあきらめるか。

眠り始める時間があまりに遅いと、授業を寝過ごしてしまう危険がある。リモート講義とはいえ、中にはzoomやらなんやらを使ったリアルタイムでのやりとりを要するものもあるのだ。そうでないと成り立たないものもあるのだ。