白昼夢中遊行症

断想

今日一日、寝不足のせいで倦怠感に取り憑かれていた。睡眠不足の反動は、必ずしもその翌日にやってくるわけではない。しかし、必ずやってくるものだ。人によっては慢性的な睡眠不足でじりじりとパフォーマンスを落としていくそうだが、おれは比較的すぐに揺り戻しがやってくる。というより、だましだましやっていく、というのがある時点から出来なくなって、その結果、自分が今日は頭が回っていないと気付くや否や、同時に倦怠感にも見舞われるのだ。この倦怠感は無理をして調子を悪くすることへの恐れの現れで、おれがおれ自身を守るための、いわば自己暗示のようなものの産物である。人はこれを「甘え」と呼ぶ。おれもこの呼び方には一方では納得している。しかし、畢竟それは甘えに過ぎぬのだから、お前はそれを押し除けて、きびきび動かなければならんのだ、そうしない奴はただの怠け者に過ぎず、したがって碌な人間でないのだ、とか言う人間がいる。中には、そんなのみんなおんなじだ、みんなおんなじように苦しんでいるのだから云々とかいう方向からやり込めようとするものもある。こうした言説には反発を覚えないでもない。おれが碌な人間ではない、と言われていることに反感を覚えるわけではない。おれは、そうした人間の押し付けがましい態度とか、他の人間の苦しみを全て理解しているかのような尊大さが気に入らないのだ。おれは自分が怠け者の、碌な人間でないことを十分に知っているどころか、そうやっておれにそのことを指摘してくる奴らよりもよっぽどそのことを知っている。何しろ、生まれてから今まで、おれはおれという人間と付き合ってきたのだし、そのような人間はおれよりほかに誰一人いないのだから。そのような分かりきった事柄をいちいち指摘して、さもおれのことを理解し、おれに良識を教えてやったみたいな得意げな顔は、何度見ても色褪せず、つねに怒りや屈辱や嫌悪などいった感情を清新なものとして掻き立てる。他の人の苦しみまで持ち出して、みんな苦しんでいるのだからとかいう言い回しを用いてくるものは論外だ。おそらくそういう奴は、おれ以外にもその尊大な謬見を得意げに披露してきたのに違いない。ところが他の人間が自身の苦しみを抱えながらもなんとかまっとうに生きているのだという事実からは、おれも自分自身の苦しみを乗り越えなければならないとか、怠け者の性分を克服しなければならないとかいったことは帰結しない。しかし、そうしたことをさもこの世界の真実かのように話してくる人間のいかに多かったことか。とはいえ、今のおれの周りにはそのような人間はおらず、というか、おれの周りにはおれに言葉をかける人間は一人もおらず、おれは今ではこうした言葉を、おれ自身の言葉として聞いている。おれはこうした立派な言説に教化された者としてのおれの言葉に反発して、こうもぶつぶつと無駄なことを呟いているのだ。