白昼夢中遊行症

今日、紫陽花を見なかった

今日は用事があったので、休みを取った。ちょっと前に二日ほど有休を取ったとき、全然うまいこと過ごすことができなかったので、その反省として、どこかしらにいこうと意気込み、そういえば今は六月だから、あじさいでも見に行こうかなと、気軽に行けそうなところにあるあじさいで有名な庭園のある寺を訪ねていったのだが、開いていなかった。何かを意気込めば空回りする。うまくいかないなあ。

仕方がないから、そこの近くにあった別の寺を少しだけ見に行ったが、何の心構えもしていなかったので、何を見たらいいかも、どこへ行けばいいのかもわからず、20分くらいでそそくさと出て行った。歩いただけ。電車に乗っただけ。停車していた特急電車の排ガスとエンジン音で気分悪くなっただけ。アフリカで子供が飢えて死んだだけ。アメリカで子供が肥えて死んだだけ。日本では今日も8トンの米が廃棄されている。イスラエルで爆撃があって、それによって幾人かの子供がみなしごになっただけ。中国のハイスクールで、いや世界中のハイクールで、今日も女の子(あるいは男の子)がいじめを苦にして自殺して、学校はそれを隠蔽している。いじめっ子は新しい標的はだれがいいか、ああでもない、こうでもないと真剣に悩んでいる。明日からいじめられる予定の子は、昨日自動車にひかれた子猫を公園に埋めたところ。その猫が今日、カラスに食い荒らされるのをみていたところ。わたしは今日、それと知らずに昼、カレー・ライスを食べた。北インド風カレー。でもぶっちゃけ期待したほどのものではなくって、食べたりなくて後からマクドナルドのテリヤキ・バーガーを食べた。別にそうするまでのことでもなかったのだけれど。

別にそうするまでのことでもなかったのだけれど、人は人を殺す。食べ物を粗末にする。偽りの善行をする。つまらないことで悩む。学校をサボる。国家転覆を企てる。会社の金で離島に私物を送る。まつろわぬ神に祈りを捧げる。ホームレスをリンチする。写真を撮る。日記を書く。そんな必要ないのに。

本を買った。まだ読んでいる本があるのに。

津島佑子『本の中の少女たち』

「本の中の少女たち」というけれど、「少女」という言葉自体なにか観念的というか、現実味がないというか、空想上の生き物のようというか、そもそも本の中にしか「少女」っていないんじゃないかなんて思う。
プロローグだけ読んだ。プロローグでは、著者は「少女」という言葉が何を指しているのかについて、かつて「少女」の当事者であった? いやどうなんだろう? という自分自身の回想とともに探求を試みる。

赤毛のアン』の世界は、ひとつのシンボリックな世界だった。顔が美しくなく、金持ちではない少女でも、その心がけと努力次第で、こんなに幸せに生き抜くことができるのですよ、という、普通の少女たちにとってはげましの世界なのだ。そうして、その世界を、いわばひとつの教科書として私も熱心に読んでいたのではなかったか。挙げ句の果ては、私たちの大抵はこれほどの逆境で育ったわけでもないし、容貌に著しく悩んでいるわけでもないけれど、それにしてもこの『赤毛のアン』のようには現実は調子よく、心豊かに生きていけるものではない、とぼそぼそ一人でつぶやいたのではなかったろうか。

金井美恵子『軽いめまい』

1990年代の東京、中産階級の主婦の日常に潜む「めまい」をえがく中編小説。らしい。知らない作家だが、最初のところをちょっと読んでみて、ちょっとクラクラしたので読んでみようかなと思った。ひと段落まるまる句点がない。酸欠になるぞ。
ところで中産階級って、いまじゃあ死語というか、そんなのいねーよって思ったりもするんだが、当時はいたのかな。そういう時代の違いを肌で感じられるというか、当時の生活とか一般的な人生観とか、そういったものを垣間見れるような気もする。『なんとなく、クリスタル』みたいに。知らんけど。

玖月晞『少年の君』

中国の小説。あらすじになんだか中国的な郷愁を感じたので読んでみようと思った。中国的な郷愁ってなんだよって思ったが、なんかそういうのがあるんだよ。ないか。著者の読みは「ジウユエシー」。新潮文庫の翻訳ものの棚で、シェイクスピアとかスタインベックとかに囲まれて、一つだけ漢字の名前が浮いていたのが目についた。それで手にとってみたのだが、そこでさっきのわけわからん中国的な郷愁ってやつをあらすじに見いだしたってわけだ。
あとでちょっとだけこの本について調べてみたところ、映画化されていて、それが映画界では有名らしく、なんだか権威ありそうな賞の名前も見られた。で、Wikipediaのページもあったんだが、そこでネタバレの不意打ちを食らったよ。クソが。

これら買った本を、このまま帰るとたぶん読まないだろうから、せめて冒頭だけでもと、近くのカフェで読む。それぞれのプロローグ、第一章、Chapter1を読む。先週の日記をまとめて書く。そうこうしているうちに日が暮れて、カラスが少女に追い立てられて、学校はいじめの責任問題についてまるで被害者のように振舞って、ムスリムマグリブの礼拝を終えたところ。12代目イマームが訪れるのを待っている。わたしはといえば、店を出ようとして荷物をまとめて席を立ったところで、ワイヤレスイヤホンがポケットから転がり落ちているのに気づいたところ。それを拾って、ほかに何か落としてはいないか、あの青い空の波の音が聞えるあたりを調べてから、店を出た。まだ6月なかばというのに暑い。そうか、もう6月なのか。あなたに出会ってから1年。気づけば早くも長い時間をともに過ごしてきたみたいだねと、わたしは用意してきた台詞を言う。あなたはすごいねと言う。そうだね、とわたしは同調する。わたしは、今日のことを忘れると思う。今日死んだ見知らぬ子どもたちのことも、いじめも戦争も横領もサボタージュも親父狩りも、見たこと見なかったこと、すべてを忘れてしまうと思う。そうしないことには、生きていけない。そういうことになっているんだ。

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12代目のイマームを待っているのはシーア派らしいけど、シーア派は礼拝の回数がちょっと少ないらしい。シーア派は日没の時間に礼拝するんだろうか。学生のころ、イスラーム文化についての講義を受けていたけどほとんどなにも覚えていない。

イスラームには興味があるけれど、こういう本はわたしは眠たくって読めないと思う。