白昼夢中遊行症

断想

おれは別れというものにまるっきり耐性がない。おれは人生でほとんど出会わなかった。だからこそ、別れというものが人一倍堪えるのかもしれない。例えそれがどんなに希薄なつながりでも、おれにとってはかけがえのないものだった。数少ない、外界に向けて開かれた窓であった、といってもいい。

おれはひとたび出会うと、いずれきたる別れを意識せざるを得ない人間だ。それがもはや過去のものになっても、やはりそのことを思い返さずにはいられない人間だ。でも、過去に縛られて前に進めない人間、というのではない。おれは人間というものがそもそも、どこかへ行くことができるものではない、ということを知っているからだ。

未来とはいずれきたるものであり、過去はすでに去しものである、というと、時間とは未来から過去へ向かって押し寄せてくる流れのようなものである、と捉えられることになる。けれど、そこにどのようにして今を位置付ければいいのか。その流れの直中に立って、全身でそれを浴びている奴が今なのか?

今というものになにやら特権を与えたがるのが人間だが、実際には「今」と呼ばれるものにも、「過去」と呼ばれるものにも「未来」と呼ばれるものにも、なんら違いはない。それらはみんな、常にそこにあったのだし、これからもあり続けるものである。時間の流れなどというものも、どこにもない。時間は流れではない。過去と呼ばれるものも、未来と呼ばれるものも、一切がそこにある。どこにある? 指差せない方向にある。

いずれにしても、時間のあらゆる部分がそこにあるというなら、たとえば人の生について考えたとき、それは誕生という出来事と死という出来事を含む人生のありとあらゆる瞬間が、いつでもしかるべき場所に配置されているのであって、誕生と死を含む人生のあらゆる瞬間は、「そういうものだ」というほかない。

だから、別れというのも、「そういうものだ」と言って了えばそれで済む話なのだが、どうしても、「そういうものだ」と言いきれないおれ。死についても、同じように、「そういうものだ」とは言えないのだおれは。

もっとも幸福な瞬間だけをじっと瞶めて、それ以外をまったく視界に入れないこと。「何もかもが美しく、傷つけるものはなかった」