白昼夢中遊行症

目的に向かう姿勢の純粋さ

ここに何かを書くのなら、もっとちゃんと、自分の文章と向き合う時間を作りたい。なんて、思っていたのか、かねて思ってはおらず、いま思いついたのか、まあなんにせよ、うかうかしていると時間はほんとにすぐに過ぎていく。以前ここに何か書いたのが11月の末で、気づけば今年が終わろうとしている。今年が、なにも成し遂げることのできなかった今年が、終わろうとしている。何か書いておかないと、と思うけれど、ここに書き置いてきた自分の文章はどれも、とりあえず何か書いておこう、という思いが見えてくるような書き殴りばかりで、我ながらいい加減にしてくれと思う。

そんなこの文章も、なんの考えもなしに書き始められた。私は、ここで書き始めたとき、もっとなにか、燃え上がるものを持っていたはずなのだけれど、いまの私には何もない。

少し前、仕事帰りにライトアップされた寺社仏閣を見にいった。そこは、私の高校のすぐ近くだったのだが、懐かしさとかはなく、むしろ、ぜんぜん見覚えがなかった。それは夜だったから、ということだけで済ませられることなんだろうか。

私には、過去がない。ような気がしている。ずっと。私がそこにいた、という実感が希薄であるというか、少しあるとすら思われない。かつてはその道を毎日通っていた、ということを歴史的事実として認めてはいるけれど、それが私の事実であると言われると、そうなのかな? と。

過去がないというのは、とても心許ないことに思われる。もっとも、私には過去があった覚えがないので、過去がないことの心許なさってなんなのよと言われても、そいつを納得させることはできないだろう。この心許なさが事実過去の不在によるものであるかは、過去がある状態と過去のない状態の何方もを経験していなければ比較できないからである。だから、私が本当に言えるのは、こうである。「私は心許なさをつねづね感じている。そして、私には過去がない」心許なさと過去の不在との間に、なにか必然的な関係があると、私は言うことができない。言えるのは、私の中に、それらが同時に存在しているということで、その同時性は偶然的とも必然的とも断言しかねる。

なんて、私は少し気を抜くと、すぐにこんななんの生産性もない論理的のような見てくれの話を展開してしまう。中途半端に大学で勉強してしまったせいで、理屈にもならぬ理屈を捏ねるようになってしまって、そのせいで飛躍力を失った気がする。わたしの話に「ような気がする」が頻発するのも、そのせいだろう。小気味良い文章を書きたいのなら、煮え切らぬ口調はそこそこにして、断言で積み上げていくべきだ。私が書いた文章のうち、私が好きだと思う文章は、どれもそのような仕方で書かれたものだ。

過去のないことの心許なさの話だった。でもさ、過去がないことは心許ないことだってのは、直感的にも理解できる話じゃないかと思うのだが、どうだろう。だって、自分が何者であるかというのを語るとき、そこで語られることの大半は、自分の過去じゃないですか? 私はそう思うんですが。自分の過去にまったく触れずに自分について語れと言われて、どれだけ語ることがあるだろうか。いや、みんな語れるのかもしれないな。出鱈目言って悪かった。じゃあ、この心許なさってなんなのだろう。

私が文章を書くとき、書きはじめは何もないときが多いけれど、書いているうちに、その文章で何をしたいのかが浮かんできて、そこからは、それに向かって突き進んでいって、で、多くの場合は結果的にしたいことはできずに、ただボロボロになって尽き果てるのだけれど、じゃあ、この文章では私は何をしたいのかといえば、もう言うまでもないだろうけど、この心許なさの根元に迫ることで、しかし、目的をあえて明言したところで、それを遂げられるわけでもない。話の流れを断ち切ってまですることではないし、このパラグラフが入ったことによって、目的に向かう姿勢の純粋さはすっかり損なわれてしまって、もはや取り返しがつかない。

文章のなかでその目的を言ってしまったら、その時点で、その文章はその目的を果たす力を失う。私の文章はそういう特性を持っているので、私は自分が何を書いているのか、気がつく前に書き終えなければならない。

だから、この文章も第5パラグラフまでが私にとって意味のある文章で、それ以降は時間の無駄だ。時間の無駄なので、もうこれ以上はいいや。私は私に必要な何かが欠けている気がしている。そのために、今日もいや今年も、何にもできずに去っていっちゃった。さよなら。

今週のお題ビフォーアフター