白昼夢中遊行症

断想

しばらくは忙しくなるみたい。
時給労働者にとっては、労働時間が長くなればなるほど、支払われる賃金も高くなるため、それほど悪いことではない。
とはいえ、そのぶん仕事はしないといけない。わたしの仕事は世界のさまざまな仕事と比較するなら、それほど辛い仕事というわけでもないだろうが、それでも仕事は仕事だ。遊んでいるわけではないし、それなりに気も使う。時間もとられるので、しばらくはヘロヘロになっているだろう。

夜更かしも、なるべくはよしておこう。日記は書くようにしておきたいけれど、書くようなこともないような日々が続くだろう。それでも、書くようなことのない日だった、ということを書くようにしよう。そんな記録でも積み重なれば何かになるだろう。


わたしの仕事の半分か五分の一くらいは文章を書くのだが、中には上手い文章が書けない人もいる。わたしも、文章を書くことはそんなに得意ではないのだが、わたしの職場ではそこそこ、くらいではあるように思う。もし、わたしが文章についてなにがコツを共有するとなると、どんなことを言うだろうか、ということを考えていた。

簡単にまとめるとなると、以下のようなことになると思う。

  • 自分が書いた文章を見直そう

いろいろといえそうな気がしたけれど、結局はこれに尽きる。言葉遣いとか、文章の構成とか、そういった小手先の部分は、自分の文章の見直しを完璧にできれば勝手に身につくものだと思う。

では「自分の書いた文章を見直す」とはどういうことか。ここでポイントとなるのは、どのタイミングで見直すのか、ということと、どのように見直すのか、ということになる。

最初のポイントは「どのタイミングで見直すか」だが、まずは書き終えたら見直すべきだ。当然すぎてあくびが出るのだが、これができていない人が驚くほど多いような気がする。しかし、これは基本中の基本だ。というか、最低限の礼儀、エチケットとして、すぐに見つかる誤字脱字は自分でさらえてしまうべきだ。

また、提出したあとも定期的に見直すべきだ。特に、長めの文章や複雑な文章、重要な文章については、読み返すことで得られるものが多いので、折に触れて読み返すようにするのがいい。このとき、読み返すことでなにをどのように得るのか、という点は、もう一つのポイント、つまり「どのように見直すか」に関係してくる。

そういうわけで、もう一つの「どのように見直すか」についてだ。これも言葉にしてしまえば簡単なことだ。つまり、「その文章を書いた自分とは別の自分の目で見直す」ということ。仕事で書く文章というのは、ときに急いで書かないといけないこともある。しかし、見直しの段階でも、そうした仕事に追われている自分の目で見るのは効果が薄い。ほとんど意味がないと言ってしまっていいくらいだ。なので、見直すにあたっては、何の仕事にも追われていない自分をどこかから引っ張り出して、そいつに念入りにみてもらうことだ。また、別の自分を持ち出すほかの利点として、より客観的な見方をできる、ということもある。自分が書いた文章を読むのと、他人が書いた文章を読むのとでは、見えるものが変わってくる。自分の書いた文章にだけ見えるものもあるし、自分の書いた文章だから見落としてしまうものもある。そうしたものを、なるべく自分で拾い出せるように、自分の中にいろいろな自分を持っておき、時間が許すなら多角的に見直してみるのがよい。

時間をおいて見直すこと、あるいは折に触れて何度も見直すことというのも、時間を隔てたという意味で別人である自分の目を通すということになる。(わたしの場合、)仕事で書く文章はだいたいは書き直しが効かないので、すでに書かれた文章を改善することはできないが、それでも見つかった改善点は、それ以降に文章を書くときに役立つ。

さらに、見直す方法として、もうひとつ良い方法がある。それは、声に出してみることだ。といっても、仕事場で突然音読するというのもきついものがあるだろう。そういう場合は黙読でも良い。黙読というのはつまり、声に出さない音読だ。とにかく、「話す」という行為を通してみることだ。これがよい試金石になる。もし、つっかえるところがあれば、そこに誤字脱字や助詞の間違いや過度な反復がある。あるいは息切れしまうこともあるかもしれない。そんな場合は、文章が長すぎる。

言葉とは、まず話されるものだった。書かれるようになったのは、ずっと後のことだ。それゆえに、文法や定番の文章構成というのも「話す」という行為にとってしっくりくるようにできているものだ。そう考えると、音読(黙読)というのは文章を見直すもっともよい方法の一つであるということにも納得してもらえるんじゃないかと思う。

音読することは、その文章が「話す」という行為に適しているかどうかを判断するための有効な手段である。自然な流れで読むことができれば、その文章はよく書かれたものであるといえるし、そうでなければ、読むのに差し支えた部分に何らかの課題がある、というわけだ。


みたいな。
こんなことを飯食いながら考えていたんだけど、こんなのおれが話すようなことでもないだろう。ただのいちパート・タイマーが言うようなことではない。だからもっと上の人がちゃんと教えるべきなのだ。それができないというなら、何かが間違っているのだ。立場が上がると、物理的にも、立場的にも個人の考えを主張しづらくなるということが、当然みたいな顔しているけれど、そうあるべきではない。なんてね。