白昼夢中遊行症

断想

書かない日々が続いています。
続いています。
続いていますね、書かない日々が。

書かないのか、書けないのか、書く気がないのか、いったいなんなのか。
そもそもなぜ、書くとか書かないとか気にしているのか。

この「なぜ」というところに、わたしがブログを書く理由、というのがあるような気がします。

気がするというだけではありますが、そういうことにして考えてみますか。いや、面倒だな。やめておこうか。

ブログというか日記というか、日記というよりやっぱりブログなのでしょうか。日記にせよブログにせよ、なぜ書くのか、みたいなことについてはもうすでに飽きるくらい書いている気がします。というのも、このブログでのわたしの振る舞いといえば、長い期間何も書かずに放置して、そのうち、何かの拍子にやる気がみなぎってか、何か書きたくなって、かといって書くネタがあるわけではないので、書きたくなった理由を書く。そうすると自然と、なぜわたしは日記を(ブログを)書くのか、みたいな文章になっている。

最近の例でいえば、8月15日の断想がこれにあたるだろうか。わたしのこの手の記録にお決まりの、最近書いてねえな、みたいな枕詞から始まり、このときの結論としては、自分自身の変化を記録を通して見るため、みたいなところに落ちていった。ところで、いまこれを書いている状況は、そのときの記録とほとんど同じだ。

しかし、それでも書かないといけない。いや自分に強制するわけでもないが、私は何かを書かないといけないという気がする。

携帯で、はてなブログのアプリを開いて何かを書き始める。すると、何かが書かれていく。何もなくても書くことはできる。まだ大丈夫だ。

いまもやはり、携帯端末のアプリでフリック入力で文章を書き連ねている。変化だけでなく、こうした一致を見るのもまた、記録をして、それを読む醍醐味なのかもしれない。

しかし、たんに記録を行い、時間をおいて自分で読むだけならば、ブログでなくてもよい。PCローカルのメモアプリとか、日記帳とか、レシートの裏とか、休日の暇つぶしに書いているあまり役に立たないコードのコメントアウト内とか、読んでいる本の余白とか。紙とペンがあれば、あるいは携帯電話にだってメモ帳があるわけだし、それに書いておけばいい。その方がお手軽だ。

反面、ブログはめんどくさい。サービスに乗っかっているわけだから、手間はだいぶ減っているのだろうけど、それでもアカウント作って、パスワードは忘れないようにしておいて、書くとなるとログインして編集画面までいく必要があるのだが、なんか久しぶりに書こうと思ったらそこへ行くまでの動線が変わっていたり、見た目が様変わりしていたりして、一筋縄ではいかない。

アプリがあると手軽でいいね。他のサービスのことは知らないけど、携帯でメモ帳を開くのとそれほど変わらない手数でブログの編集画面までこぎつけることができるのであれば、それだけでブログサービスとしては合格。花丸あげちゃいます。って何の話をしてるんだまったく、そんなことを話したいわけではなくてですね、困ったなあ。

そう、困るんですよね。書いたからといって、考えがまとまるわけではない。「わたしがブログを書く理由、それは書くことを通して自分の考えをまとめて、そしてそれを世に問うためです」なんてかっこいいこと、言ってみたいですね。残念ながら、私にはそんなこと言える機会はなさそうです。そもそも、べつにそんなに言ってみたくもないかな。じゃあ、代わりに何と言いたいのか。それがわかっているのなら、一行目に書きますよ。書きたいことが明確なのであれば、結論から書きます。文章を書く際の基本中の基本ですね。つまり、書きたいことというか、結論があるわけではない。結論どころか、テーマすらないことがほとんどだ。テーマはあった方がとっかかりやすいので、使える話題があれば使いますけどね。その点、はてなブログの「今週のお題」というのはいい取り組みですね。たまに話の種として使ってます。大半は、まったく関係ない話になって、なんだか申し訳ない気持ちで投稿することになるのですが。

どんどん話が見えなくなってきました。なんか、書いているうちに、もしかしたらこういうことが言いたいのかもしれない、なんてことが浮かんできたりもするのですが、思い浮かんでいることと、それを実際に言葉にできることとはまた別ですよね。思いを言葉にできなくてもどかしい思いをしたこと、誰しもあると思います。私はとくに頭が良くなかったので、幼少期は周囲の大人どもに言葉をせびられて途方に暮れることがよくありました。言葉で解決できるのであればそうするのに、言葉ではどうにもならないから行動に訴えたのだというのに、それをわかってもらえず、とにかく言葉で伝えろと言われました。言葉をうまく使える者が偉いのだな、とわたしは理解しました。そうなると私は、偉くなることはないだろう。死ぬまで地べたを這いずることになるだろう。実際にいまのわたしは社会においては底の方に位置付けられると思います。

言葉の力、というものは確かにあると思います。それをうまく発揮できるように、言葉の刃を磨くために書くのだと、そう思っていた時期もありました。が、それならもっと言葉に気をつけて、いい文章を日々心がけ、なによりまめに書くべきでしょう。まめに書かないのは飽き性もあるとはいえ、言葉に気をつけたり、いい文章を書こうとしたり、そうした、単にそのような姿勢を持つだけでいいようなことさえもしていない。それどころか、意識的にしないようにしている自分に気づきました。わたしはどうやら言葉の力を鍛えるために書いているわけでもないようです。

いや、なんか段々と一般的なものを書くことについての話にすり替わっていっていますね。そうではなくって、ブログを書く理由でした。

ひとつは、何かをした気になれる、ということでしょう。たんに日記を書くだけでなく、それを公開するとなると、より公的な場所に接近することになります。ひとりで日記を書くだけでも何かをしてはいるのですが、その証人は自分ひとりだけです。自分自身ほど、証人として頼りないものはない。そこで、不特定多数の人間を巻き込むわけです。いや、読まれなくても、読まれる可能性があるというだけで十分です。公開した時点から誰でも見られるところに置かれている、ということは、何かをやった、ということのより強い証拠として残ります。結局のところ、何かをした気になれればいいのです。

このことは、わたしがこのブログを公開するようにしたときに書いた文章にありました。

おれは生まれてきたことを悔やみながら、ひっそりと生きている。そして生きるにあたって、何者かであることを社会は半ば強制してくる。そのことにうんざりしつつも、何者かにならなければならないと焦る日々。

そうして、何かしなければならないと考えるおれは、怠惰に身を任せて何もしたくないおれと話し合い、その結果急ごしらえな手段に出ることにしたのだ。つまりおれの日常をネット上で垂れ流しにして、押し売りのような形でおれは社会に向けておれの日々の記録を人々に与えるというものだ。こんなものを見る人間がいるのかどうかわからないが、少なくともおれは何かをした気になれる。そうやって何者かになろうとするおれに対して、何もしていないという罪悪感を和らげることができれば、この目的は果たされたことになる。

確かに、目的は果たされている。ような気がする。「何か書かないといけない」という思いも、この観点から見ればなるほど理にかなっている。つまり、「何かしないといけない」という思いの捌け口がブログだったわけだが、そこに何も書いていないために、そうした思いが次第に募ってゆき不安になってくる。と、そういうわけですね、先生。

うーん、月並みですね。あんまり気に入らないかな。自己満足、というのもあるとは思うんですが、それ以外にもあるのでは?

それ以外というと、何だろうか。

日記を書くために、あるいは文章を書くためにブログをやっている、みたいな、そういうことはないですか? まあ、最終的にはこれらも自己満足へと行き着くのかもしれないけど。

みなさんは、普段から独り言をするタイプですか? 独り言といっても、実際に声に出す必要はありません。頭の中でどれくらい喋っているか、というのをお聞きしたいのですが。

わたしはといえば、ほぼ常に喋っています。それこそ、睡眠に支障が出るレベルでずっと頭の中で喋っています。独り言とはいいましたが、実際に頭の中では、誰かに話しかけています。相手は一人である時もあれば、何人かのときもある。特定の人物のときもあれば、特定の人物ではないがduで話す間柄の何か親しいらしい存在と話すこともある。とにかくなんか喋っててうるさくて眠れないので基本的に夜はYouTubeでお笑い芸人の動画を流して、その音声を聴いて眠っています。そうすれば会話は聞こえなくなるからです。

さて、ここからどうやって「日記を書くために、あるいは文章を書くためにブログをやっている」という話に持っていくつもりだったのか、わからなくなってしまいました。

見ての通り、行き当たりばったりどころか、日本語かどうかもわからないくらい、支離滅裂な文章ではないですか? わたしはこれでも、これを書いた人間なので、言いたいことは分からなくとも自分と同じ言語で話していることはわかるのですが。

いやー困りましたね。これ、わたしの独り言をただ文字に起こしているだけなんですよね。

一種の自動筆記みたいなものですね。やりたくてやってるわけではないんですけどね。

ちょ、待てよ。ちょっと上で「言葉に気をつけたり、いい文章を書こうとしたり、そうした、単にそのような姿勢を持つだけでいいようなことさえもしていない。それどころか、意識的にしないようにしている自分に気づきました」と言っていませんでしたか? 意識的に自由に書いているのではないですか? そこを突かれると困るね。何にも言えなくなる。

ところで、もうそろそろこの文章にも終止符を打ってしまいたくなってきたのですが、どうすればいいのでしょうか。いや本当に、終わらせるのが苦手なタイプでして、ちゃんと書き終わった文章があっただろうか(いやある)。

あるけど、このタイプの文章ではないよね。このタイプの文章も、いくつかあったけど、どういうふうに終わらせていたっけ。

6月11日の断想には、こうある。

わたしは例によって迷子になりました。この話を終わらせるやり方がわからなくなりました。

わからなくなったので、そういう時に使ってきた方法を、今日も使います。つまり、わからなくなってしまったことに言及したあと、強引に話を打ち切ります。

というわけで、おしまいです。

なるほど。話の終わらせ方ではなく、わたしがブログを書く理由について、なるほどと思った。同じ記録の、もっと前の部分を引く。

とにかく、わたしはわたしと結ばれたい。その思いで、ふらふらとここに戻ってきて何かしら書くのです。何かしらといっても、何気ない話題がないので、ずっと同じことを書いたりするのです。

ブログに求めるものというのは人それぞれだと思います。わたしは、わたし自身との結びつきを求めています。このブログに書き始めた頃は、そうでなかったかもしれませんが、いつしかそうなりました。

わたしはわたしと結ばれたい、か。なるほどね。それはある。そのために 、自己の連続性を持たせることのできる場所で書く。その場所として選ばれたのが偶々か必然か、ブログだったということだ。

とまあ、自分が納得できるのであればそれは自分に関しての答えでいいだろう。

ただ、この記録ではなぜ公開しているのか、という部分には触れられていない。

べつにわたし自身と結びつきたいだけなら、非公開で書き続ける、なんてこともできたでしょうから。

でもまあ、いいでしょう。そこのところは。

ここで、わざわざ公開する理由については棚上げされていたわけだが、何とも都合のいいことに、いま書いているこの文章の、いくらか上の部分ではそれについてこのブログの初期の文章まで遡って、こういうことなのではありませんか? と言ったところだった。

つまり、公開しているということについては自己満足、何かをやっている気になって、少しでも心を軽くするためだということだ。

そういうことでいいんじゃないですか?

これで許してください。眠りたいんです。

あ、許すのも許されるのもわたしでしたね。

よし、納得したことにして眠ることにします。長かったね。おやすみ。

特別お題「わたしがブログを書く理由