白昼夢中遊行症

2024-011

アフリカの子供を助けるための募金ってやつを、昔からよく聞くのだが、これって結局のところ、いいことなんだろうか。
もし、生きながらえたところでその先に待っているのが、飢えと紛争に明け暮れる日々なのであれば、死んでいくままにしてやるべきだ。
もし生かすとするなら、そいつの人生すべてに、いやすべてとまでは言わない。せめてそいつが人殺しにならないように、責任を持つべきだ。
医療ってのも考えものだ。ひとり生かすことによって、将来そいつの手によって十人殺されるかもしれない。だからおれは無責任にアフリカの子供にワクチン注射を受けさせるための募金、なんてのはまっぴらゴメンだ。
だいいち、いくらの募金で何人の子供が助かるとかって、そんなふうに命の一つ一つをカネや数字で勘定するのがいやらしい。
数字でしか実感できないものは、居ないのと同じだ。ならば確かに目に見えるものを助けろよ。常日ごろ、困っている人間のいかに多いことか。まず手を差し伸べるべきはこうした人たちではないのか。

紛争を止めるために武器や暴力を持ち込むくらいなら静観していたほうがマシだ。そのうち馬鹿らしくなってくるんだから。こうした荒事にいちいち首を突っ込むやつってのは、戦争したいだけなんだ、結局。

2024-010

今朝は夢を見ていました。このところ、夢のほうがずっと居心地がいいので、私はあちらに引っ越そうかと考えています。

問題は、あちらがどちらにあるのか、私にはわからないということですね。
いったいどこへ行けばいいのでしょう。
これを書いている今、そもそも今朝の夢がどんなだったかもわからなくなっていました。


夕方くらいから、喉が痛み始めました。まだ「風邪」といった感じではありません。
しかし、このまま風邪を引くような気がします。
病は気からといいますが、このところ私の気は日を追うごとにめげています。
これでは病に打ち克つこともままなりません。

このまま大病を患って、ひっそりと息絶えたい。なんて空想を、性懲りもなくしています。

2024-009

自殺を考えることは、逃避の言い訳としてはこの上ない反則手だと思う。
あれか、これかの問題が無意味になる大問題を持ってきて、それに取り組むことで、もとあった問題については考えないで済むようになるのだ。

しかしそこで自殺を選んだとしたら、一転して現実の問題に打ちのめされてのものとみなされる。
それが逃避のための遊びのもう一つの果てに過ぎないにしても。

2024-008

デュルケームの『自殺論』の序文を読む。 わたしの悩みも、心だなんて捉えようのない曖昧なものではなく、社会的な実在として扱うことができるのだろうか。そうだとして、それによって説明が与えられることが、わたしを救うことはありうるのだろうか。

被災地への、賞味期限切れ物資支援についての記事を読む。 賞味期限や消費期限というものは、もとは製造者が自分の責任の範疇を定めるものではなかったか、と思うのですが、どうやらこれを過ぎてしまうと絶対に食べられないと思っている人がいるらしい。 自分が食べるものが安全かどうかは、自分で観察して判断を下すべきはずなのですが、自分の体について責任を背負い込みたくないのでしょう。人類が文明に毒されている、と反文明主義者に批判されてしまいますよ。 エジソンは人類に物質的な豊かさを与えはしたものの、その代償におおらかさを奪っていってしまいました。

もし現代のような文明がない世界に生まれ落ちていたならば、わたしにとってこの世はもっと生きやすかったかもしれません。いや分かりません。しかし文明は人間から、それに寄りかからないで生きる力を奪ってしまった。これは本当に思えます。いまや人間は、それを維持するために躍起になっている。文明に生かされ、文明のために生きている。

2024-007

腹の痛みは落ち着いたが、気分は地に落ちたまま。正月の暗いニュースも、不謹慎ながら私にとっては気晴らしになってしまうようだ。
といっても私を悩ます問題は、実際のところは些細なものに過ぎないだろう。人間の悩みなどというのは往々にしてそのようのものだ。
とはいえ当の私にとっては一大事であることに変わりはなく、そのせいでここ数日は落ち着いて電車を待つこともままならない。ややもすれば通過する急行電車に飛び込んでしまいそうになるからだ。
かろうじて私をつなぎとめているのは、人目につけたくない日記の始末とか、PCの中身とか、その他もろもろの些末な心配だ。こうした心配が、私を一瞬ためらわせ、その一瞬のうちに現実に引き戻される。
そうやって今日も生き延びて、そして明日が来ないことを祈りながら眠りに向かう。
どうか明日は目覚めませんように。

2024-006

今日は一日寝ていました。
飲食するとお腹が痛くなるので、何も食べず、飲んだのは牛乳300ミリリットル程度、加熱した水300ミリリットル程度。

自然死する前の人間は、食事をしなくなり、次第に衰弱していくそうです。
ならば私もこのまま消え入るように死んでしまえたら、なんて思ってしまいますが、そんな思うようにはいかないでしょう。

今日は腹痛以外、とくに調子の悪いところはなく、活動可能な状態ではありました。しかし全く気力がわかないというか、あるいは生きることへの微かで的はずれな抵抗か、今日は本当に何もしませんでした。

本当に、生きる意欲が湧かない。おいしいものを食べれば、ちょっとくらい湧いてもくるのかもしれませんが、いまはそれも叶いません。

「死して忌まわしいこの世から離れ、永遠の安らぎを得られるのならば……という考えは、生きていて楽しいことがあるならば生きていたい……という考えの裏返しだ」といったことをゴルゴ13がどこかで言っていました。

このような気持ちもあるにはあるのですが、それ以上に、面倒くさいとかどうでもいいとか、たとえ楽しいことがあったとしてもしょうがないというか、そんな気持ちが強い。

身体が弱っているからこんな考えが浮かんでくるわけではありません。このことはもう何年も考え続けています。真っ当に生きられない言い訳としてこう考えるようになったのか、こういう考えを持っているから真っ当に生きられないのか、わかりませんが、どちらにしても手遅れであることには変わりありません。

金も命も運命も、どうしてそれを必要としているところに行き渡らないのでしょうか。

2024-005

いまだに腹痛が続いています。
こうも長引くと、さすがに不安になってきます。

今日は仕事があったのですが、腹痛のために何度か席を空けることになりました。
トイレに行って力んだところで、ほとんど何も出ないのですが。

地震について。
私は親戚知り合い含めてとくに被害はなかったが、職場には親戚の家がなくなったという人もいた。
とはいえあんな有様だと、命があっただけでも僥倖というものなのだろう。
ようやく津波の被害についての情報も目にするようになった。東北の頃にくれべればずっとマシなのかもしれないが、それでもいくらか被害はあったようで。

その一方で、こんなどうしようもないニュースも。

被災地でみかん窃盗か 自称大学生逮捕 “ボランティアで来た” | NHK | 令和6年能登半島地震

調べに対し「盗んだことに間違いない」と容疑を認めたうえで「ボランティアの目的で輪島市に来た」と供述している

ボランティアとはなんなのでしょうね。いまではこの言葉は慈善事業という意味合いで耳にすることがほとんどですが、英語のもとの意味を辞書で引くと、「進んで…する」という動詞の意味もあるようです。進んで火事場泥棒するのを「ボランティア」と言ってみたのかもしれません。見当外れかもしれませんが。