白昼夢中遊行症

平成の思い出?

今週のお題「平成を振り返る」

気がつけば、四月ももう終わりで、平成ももう終わりで、平成に何か思い入れがあるかといえば、ぼくは平成に生まれたのであって、それしかぼくは知らないので、これといって平成と関連づけられた思い出なんてなくて、そもそもぼくに懐かしむ思い出なんてなくて、過去ではなく今に生きているのかと言われるとそうでもなく、どこか別の世界を生きてきた気がするのだが、年号が変れば、ますます現実感がなくなって、ぼくはいったい正気の世界を生きているのか、それとも狂気のただなかに生きているのか、いや、狂気というが、それは客観的にしか捉えられないことで、ぼくにとってはいつでも正気で、夢ばかり見ていても、それがぼくにとっては現実で、地下鉄の線路を歩いていたら、前から後ろから電車が来て、なんとかすれ違うところから抜け出して、生き延びるのだが、いや、そうではなかったか、電車はなぜか消滅して助かるんだったか、とにかく轢かれて死ねば夢は醒めるが、ぼくはだらだらと夢を見続けていて、いつまでも続く夢は知的貧困を示すのだと、シオランは言っていたけれど、ぼくはこの悪夢にどう終止符を打っていいかわからず、知り合った男に、また会うことがあるといいですねと言うと、それはちと難しいと返ってきて、たがいに人波に攫われて、ぼくと彼はたまたま同じ電車に乗り合わせて、なんの話をしたのか、気が合って、ぼくはそれで再会を望む言葉を別れ際に言うのだけれど、それはかなわないらしく、それは何故だろうかと考えるが、そういえば、その男は、こんなに人が多かったらみんな紛れてしまってわからないと言ったが、それでも同じ時間に電車に乗れば会えるのではと思ったが、人類は増えすぎていると言うのも事実で、人間やその他生物は緩やかに絶滅すべきではないだろうかと思うし、とりあえずぼくは人間を増やさないし、そもそも増やしたくても厳しいのであって、だからこの主義なんていうのは後付けで自己正当化しているだけなんじゃないかとも思って、とにかく平成なんてまっぴらごめんで、次の年号なんてのにも関心は示さないし、なんだっけ、生年月日を書くときなんかはいつも西暦だし、ぼくは平成の人間というより世紀末の人間であって、平成の思い出と言われても困る。