白昼夢中遊行症

【登校自粛】リモート講義(受ける側)雑感【三日目】

遅めの新学期が始まって三日が経った。しかし今年は例年よりもましな気分だ。というのも、流行病の影響下、外出の自粛が求められているなか、私の通う大学ではその対策として完全な遠隔授業を取り入れており、依然として家に引きこもっていられるからだ。

 

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遠隔授業について、私はその初日に、好意的な見解を示した。少なくとも私に関していえば、遠隔授業が性に合っている。そして今のところ、この立場は変わらない。

何が良いって、大学に行かなくても良いということだ、というのは以前も話したかもしれない。しかし、人混みに紛れなくても良いという点を除いても、私は大学に行かなくて良いということで恩恵を得ている。というのも、自宅から大学へ、そして大学から自宅への移動がなくなるからだ。なんだそんなことかと思われるかもしれない。しかし、この移動があるおかげで、私は自宅で勉強することができなかったのである。

どういうことかというと、私は(そしておそらくほとんどの学生はふつう)、大学には講義を受けにいく。なぜほとんどの学生が大学へ行くのかというと、他にもいろいろな動機付けはあるだろうが、第一の理由としては、講義を受けたいからだろう(そして単位を取って卒業したいからだろう)。友人に会いたいだとか、部活に出るためとかいう動機もあるだろうが、これはあくまで「大学に行く」ということの動機付けであって理由ではない。大学に行く理由とは講義を受けに行くことである。大学は勉強する場所なのである。とはいえ、大学で講義があるからといって、そこでしか勉強ができないわけではないし、してはいけないというわけでもない。しかし、「大学という場所」と「勉強をすること」は深く結びついているということはいえるだろう。

それに対し、自宅ではなかなか勉強できないものだ。それはなぜかというと、自宅には自宅での用事が色々とあるからだ。たとえば掃除や洗濯、料理(しない人もいるし、私も最近はしていないが)などである。食事や睡眠だって立派な用事である。自宅にいるとそうした、自宅での用事を優先的にこなすように考えがちなのである。そして、ついつい勉強というのは隅に追いやられがちなのである。自宅でのタスクが終わり、時間に余裕があるならば他のタスクを充てることができるのだが、そこで勉強が忘れられていると、おもにだらだらと過ごすことに充てられる。

勉強をする空間としての大学。そして、生活(家事)をする空間(そして、だらだらと過ごす空間)としての自宅という場所の役割づけは、それらの空間の別個性によって生まれる。いうまでもなく、大学と自宅は別の場所である。そして、空間の別個性というのはそれらの空間——勉強する空間と、生活をする空間——を隔てる距離によって生まれるのである。つまり、通学路である。大学という場所と、自宅という場所は通学路を隔てて相互に独立しており、そして、場所から場所への移動によって私の態度というのも、場所の持つ役割に応じて変わるのである。すなわち、大学では勉強をし、自宅ではだらだらと時間を過ごす、というふうに。

しかし、この距離はリモート講義の導入によって取り払われた。今や私は家にいながら講義を受け、同じく家にいながら家の用事を済ましたり、だらけたりできるし、そうしなければならない。私は場所の力に依存するこなく、自発的に勉強をしなければならない。そして、私は自発的に勉強をやめなければならないのである。これは、気の済むまで勉強しても良いし、気の済むまで勉強をしなくても良いということでもある。これは私にとって、すばらしい変化であった。

というのも、それまでの形態では、私は気が進まなくとも、頭が回らなくとも大学にいれば講義を受けなければならなかったし、どれだけ勉強に対して意欲が湧いていようと、家にいるとだらだらと時間を過ごしてしまっていた。また、講義を聴いていて、その内容について衝動的な好奇心に駆られたとしても、その講義が終われば、次の講義を受けるために、それを抑え込まなければならなかった。他方、リモートで講義を受けていると、一部のディスカッションを伴う授業や、ロールプレイングが重要な語学コミュニケーションの授業を除けば、自分で必要な時間をその講義に充てることができるのである。気になることがあったら気の済むまで調べればいい。関心が湧かなければ、とりあえず要点を押さえておけばいい。また、大学に行くか行かないかを決めることなく講義を受けるか受けないかを決めることができる、というのも魅力的だ。とくに講義を受けるのがいやだというわけではなくても、大学に行くのはおっくうだと感じることはありうる。土砂降りの雨の日を考えるとわかりやすいだろう。土砂降りの雨の日には、どれだけその日の講義が興味深くても、大学へ行くのが面倒だろう。しかし、大学に行かなくてもよいのであれば、そういった葛藤とは無縁だ。

何をするにも満足するまでそれをしても良いし、しなくてもいいのである。私は私の意志でそれを決めていいし、決めなければならない。

私は大学生活4.5年目にして、そしてこの特殊な状況下においてようやく、やたらと大学生に求められているあの曖昧な言葉で指示されている資質——主体性——を身につけつつあるのかもしれない。

お題「#おうち時間