白昼夢中遊行症

断想

今日は荷物が届く予定だった。待っていてもなかなか届かないので、外出する用事、つまりは食料の買い出しに出られずやきもきしていた。なので家のチャイムが鳴ったとき、いつものようにドアスコープから相手を確認するということをしなかった。ドアを開けると天理教だった。あ、間違えた。

「何かお困りのことはありますか」

「いえ、とくになにも」

「では、お祈りだけでもさせてください」

「ええと……」

「20秒くらいで終わるので」

「まあそれくらいなら構いませんが……」

というわけで、なんかお祈りされた。

彼は見たところ、宗教勧誘というより、修行の一環として家家を訪ね、お祈りをしてまわっているようなふうだった。誰かに祈りを捧げることは、たぶん徳を積むための善行なのだろう。

「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」

かれはぶつぶつと呪文を唱えながら、手で何やら印を結んでいた。

しかし誰かに祈りを捧げることが修行の一環だとして、それがどうして修行になるのかわからなかった。修行とは、人によい行いをすることによってなされると考えたとして、単に祈りを捧げることが人に対する善行であるとは思えない。というのも、私にはその祈りの価値が理解できないのだから。そして、その価値を解さぬ人間にとっては、そうしたことは無価値も同然なのだから。

たとえば、ある未開の部族があったとして、彼らにとって額に烙印を押されることが勇気あるものとしての至高の名誉だったとしよう。しかし彼らにとってそれが価値を持つからといって、客人であるあなたに礼を尽くして、あなたにもその烙印を押しましょうと言われたって、余計なお世話だとしか思わないだろう。

だから、祈りを捧げることがたとえその宗教の価値観を共有する人たちにとって善行として受け入れられていようと、その価値観を共有しない人たちの目には意味不明としか映らない。祈りを受けた人にとって何ら価値のないことだとすれば、祈りを捧げることはどういう点でよいことなのだろうか。たとえ価値が分からずありがたがられなくても、その宗教で信じられているよい行いをすることはそれ自体としてよいことなのだ、というのであれば、ますます分からない。それとも、気持ちがありがたいのだろうか。たとえその善さが分からないとしても、その人にとって善いと信じられていることを私にしてくれている、礼を尽くしてくれている、という気持ちがありがたいものなのだろうか。そうした姿勢で家家を訪ね回って祈りを捧げて回ることが善行なのだろうか。私には分からない。

しかしそうはいっても、私は正月には初詣へ行き神なるものに祈りを捧げ、葬式では坊主の説教をありがたがって聞いているのだ。私にはこれらの価値が同じように分からないのに。なんの準備もなく書き始めてしまったせいで、思考が絡まってどん詰まりになってしまった。これ以上何かを考えても何も明晰にならないだろう。ますます混乱するのみだろう。私は困り果てていた。

「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」

私がお祈りを受けている間、自宅の部屋の奥からは、PCで流しっぱなしにしていた講義の音声が聞こえていた。

祈りが終わると彼は雨の中いずこかへ歩いて行った。