白昼夢中遊行症

日常が回復しているらしい

「日常が回復している」そんな言葉を何度か耳にした。冗談じゃない。この連休、何度か用事があって街に出たけれど、そこで見た人たちはみな非日常の足取りだった。もとより連休はいつだって非日常だ。そこで出歩く人たちを見て「日常が回復している」なんて、どうしてそんなことが言えるのか。

そもそも、日常は損なわれたのか? 日常の何が損なわれるのか? 損なわれる何かがあったとして、それは回復するものなのか? 「日常が回復している」という言葉には、よく分からないことが多く含まれているせいで、聞くたびにもやもやした気持ちになる。こうした言葉を使う人は、日常というものをよく知っているのだろう。しかし、おれにはわからない。この時疫によって何かが損なわれた、と感じたことはなかった。おれの中からは、すでに日常のような何もかもが、すでに損なわれてしまっていたからなのかもしれない。しかし、いつから?

——いつから? 物事の時間的な位置についての問いに答えるためには、もう少し話を具体的にしないといけない。時疫によって「損なわれた」とみることができるものがなんであるかは、それを契機にした変化を考えると、わかるかもしれない。流行病によって、いったい何が変わっただろうか。

しかし、変化を列挙して考えていく、というのは面倒だ。なにより、すでに損なわれてしまっていたおれが挙げることのできる変化はきわめて少なく、何かを考える材料としては不足している。おれがあげることのできる変化——外出時に必ずマスクをつけるようになった。まめに手洗いとうがいをするようになった。自分の体調に注意を払うようになった。……そうしたことをもとに考えたって、「大した変化はないな」という結論にしか至らない。

あるいは、おれは何かが損なわれる以前に、損なわれるべきものを最初から持っていなかったのかもしれない。……うん、なんだかこれが正解のような気がしてきたぞ。おれには日常が、あるいは、世間的な日常が存在しなかったのだ。いやいや、「世間的な日常」ってなんだよ。こんな余計に意味が分かる言葉は持ち出すべきではないな。とにかく、おれには回復するべきものが最初から備わっていなかった。「日常が回復している」という言葉に何の実感もわかない理由は、そんなとこだろう。

しかしながら、問題は大型連休で出歩く人たちを見て「日常が回復している」と述べることの妥当さだ。おれはそこにもやもやしているのだ。

そういえば、「ハレ」とか「ケ」とかいう言葉を、中学生か高校生だかの、社会科か何かの授業で聞いたのを、ふと思い出す。そこでは、それら二つが織りなすものが「日常」なんだぜ、みたいな感じの説明がされていたような気がする。そうか、そういう考えで行くのなら、大型連休で出歩く人々の姿、というのも日常の一部とみなすことができるのか。なるほど、大型連休で出歩く人々を見て、「日常が回復している」と言うのは、まったくの誤り、というわけではないのかもしれない。しかし、大型連休で出歩く人々を見ただけで、「日常が回復している」と言ってしまうのは依然として誤りだろう。おれのもやもやは、どうやらそこにあったのだろう。「ハレ」の日の人々の姿だけを見て、「これこそが日常だ」なんてことを言うのは、あまりにも見落としが過ぎる。生活のほとんどは、むしろ「ケ」の中にある。授業でも、「ケ」こそが大事なんだ、みたいな話だったような気がする(そんなことを言いながら、そんな授業あったっけ、なんて思いはじめてきた)。

しかしながら、「インスタグラム」やらなんやら、そうしたもので日々の「映える」ところだけを切り取って、「これが私の日常」なんて言ってひけらかすのが今どきだというのを、どこかで聞いた。だとしたら、大型連休で出歩く人々の姿だけが日常であり、何よりも取り戻すべきものという認識が、今の世の標準なのかもしれない。そうなると、おれのもやもやは、まったくもって時代遅れの認識によって生み出された、的外れなものなのかもしれない。日々の中の「ケ」の部分は、「ハレ」の踏み台として費やされ顧みられないもの、というのが今どきなのかもしれない。

……うん、分らんね。そもそも「ハレ」とか「ケ」とか、でっち上げられたものかもしれない不確かな記憶から得た知識に基づく、不安定な言葉を使ったところで納得のいく答えは出せないよな。こんなことはもうやめておこう。

なんにせよ、おれは「日常が回復している」という言葉を聞いても、何が起こっているのかわからない。わからないのだ。わからないのに、さも誰もがわかるものであるような調子で言われるその言葉を耳にするので、おれは自分という存在が間違いのような気がしてしまう。ただ、それだけの話だ。