白昼夢中遊行症

いままで、なんとなく<head>要素にスクリプトを入れて、トップページの表示形式を疑似的に一覧形式にしていたけど、なんとなくやめてみる。

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<p><a href="https://bounoplagia.hatenablog.com/archive">白昼夢中遊行症</a></p>
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収益化とか、独自ドメインとか、もっと読まれやすくなることなんかには興味はないが、広告が邪魔なのでProにしたい。けど、ポンと金払えるほど金持ちでもない。それに、なんか3か月くらい前には、Proに登録したらノベルティグッズがもらえたみたいじゃん。そん時にすればよかったな、今更登録するのもなんか乗り遅れたみたいでいやだな、なんておもったりする。

ブラウザから記事を書こうとすると、相変わらず「タグをつける」のところから青い吹き出しが出てきて邪魔をする。もう「新機能」て言うほどでもないだろう。いざつけようと思ったら毎回、「新機能でっせ」みたいなポップアップが出てきて、タグをつけるのに余計な手間が増える。ま、ブラウザから記事を書くことは今はほとんどないので構わないけど、かまうひともいるんじゃないか、と思ったり、思わなかったりする。

なんとなく、トップページの表示形式を一覧形式にするのをやめたけれど、なんとなく、気持ちが悪かったので、またなんとなく、疑似的な一覧形式に戻しました。たぶん、なんとなく一覧形式にするることにしたときも、なんとなく気持ちが悪かったんでしょう。なんとなく、そうおもいました。

㌐がなくなったらどうすんの?

今日は仕事があったので、一日をそれほど困難なくやり過ごすことができた。残業ができないので、時間を潰してから、自分の寝るところへ向かう。

色々と喋りたいことがあったのだが、ひとつ、なんでやねん、て思わず口に出してしまいそうな、いや、実際そんなことはしないんだけど、とにかくなんでやねんな出来事が降りかかったせいで、それどころではなくなってしまった。

といっても、些事もいいとこなんだけど、あれです、ギガがね、いわゆるギガがですね、なくなったんですよ。こんなこと、初めてなので、動揺してしまったんです。いや、初めてというわけではないんですけど、そのときは明らかな間違いがあったので、あ、ミスったな、で済んだわけです。ちょうど月末でもありましたし。でも今回は、全然心当たりがないというか、たしかに、家にいられず、職場にもいられなくっていじけて携帯ぽちぽちしてたんですけど、間違いとかしたわけじゃなく、通常利用していて通信制限がされるところまで来てしまったのはこれが初めてなんでさ、それにまだ10月も始まって1週間しか経ってないわけで、smartphoneのsim lockは解除してないし、どうしよう、どうしよう、てなわけですよ。

まったく、自分があまり知らないことに直面させられると、もうどうしようもないね。free wi-fiは使ったことないし、シム・ロックの解法なんて知らないし、シム・カクヤスとか、シム・フリーのmobile routerとか、この事態に対処する方法として、これらの耳慣れないものから好ましいものをひとつないし複数選択し、複数選択した場合はいい感じに組み合わせて、どうのこうのして、うまいことしないといけない。まったく、どうすりゃいいのか分からんぜ。

でもまあ、どうにかはするぜ。なにせ今月はほとんどほっつき歩いていないといけないからな。困ったぜ。困ってるから、もう眠るぜ。眠りはおよそ全てを解決してくれる。眠れないということ以外の問題であれば、ほとんど全部と言うて差し支えない。

断想

そういや、この日記の総PV数が1,800になったらしい。この数字のうち1,700くらいは自分だとしても、100回は知らん人間が覗いていることになる。そのうちの90回くらいは誤アクセスだろう。となると、10回くらいは誰かが読んでいる。今さらだけど、恐ろしいことだ。怪文書めいたものばかり書いている自覚はあるので、それを見られていることを考えると、もっと毒を薄めたほうがいいんだろうかと思ったり、思わなかったり。いや、禍々しいほうが、却って危険性がわかりやすくて親切か。いや、そもそも、そこまで毒のあるものでもないか。ほんと、意味のないことばっか書いてるもんな。いったい、自分以外の誰がこうしたものを好んで読むのだろうか。この世は理解しがたいことばかりだ。仕方ない。

断想

0:29 AM (10/06/22)

6

疲れていると、ろくなことを考えない。わたしは疲れていた。疲れ切っていた。へとへとに疲れ切っていた。なんでそんなにも疲れることがあるのか、なんてそんなつまらないことは聞きっこなしだぜ。苦しみを理解し合うことなんてできない。みんなそれぞれの地獄を生きるだけだ。

7

それにしても、今日は本当に寒かった。これからもっと寒くなる。わたしは排除されたままで、震えて日々を過ごすのだろう。わたしはみごとな笑がもちたい。

8

殆ど絶え間なしに妖しげな言葉や念想が流れてゆく。僕は流されて、押し流されてへとへとになっているらしい。僕は何年間もう眠れないのかしら。僕の眼は突張って、僕の空間は揺れている。息をするのもひだるいような、このふらふらの空間に……。
——原民喜「鎮魂歌」

9

わたしには、やはり1人になることが必要らしい。適合の向きを変えなきゃな。わたしではなく、わたしを取り巻く世界の方を修正するのだ。なんて、言うのは簡単か。でも、言うだけならタダなんだし、言うだけ言わせてくれ。それで気を済ませるから見逃してくれ。わたしは変えてみせるぜ、このクソッタレな状況を、なんとかわたしにフィットさせてやるのだ。おれは何かをしでかすぜ、本気になったおれは、何をしでかすか分かんないぜ……

10

そんなことを言いながら、眠るぜ。コントやら漫才やらを聞いて、笑いながら眠るのさ、いつものように。そうすりゃこわい夢を見ないですむ。少なくとも、その頻度は少なくなる。さあ、眠るぜ。あんたも、いい夢見ろよ。

断想

わたしはもう歩けないのだろうか? そんなことはない。わたしはまだ歩ける。「まだ嘆きがある」と言った人は線路に横たわって死んでしまった。わたしには嘆きもない。しかし、わたしはまだ歩いていられる。わたしはまだまだ歩いて行ける。

断想

今の状況が続くのであれば、わたしはそう遠くないうちに風邪でも引いて、しかし風邪を引いたとしても家で寝ていることもできないので屋外で眠り、この寒さでさらに拗らせて死んでしまうだろう。まったく、なんてしょうもない人生なのだろう。「しょうもない人生やった」と言い残してどこかへ行ってしまった人がいたっけ。その人が自分の人生を本当にそう評価していたのかは知らないが、しょうもなくない人生というのがどういうものなのか、それがありうるものなのかも、わたしにはわからない。

死んでしまったほうがいい。ほとんど毎日、そのことを考える。死んでしまったほうがいい。この日記の最初の読者は、突然消えてしまった。死んでしまったのか、生きているのか分からないけれど、突然消えてしまう理由として、一番よく説明できるのは死んでしまったという考えだった。一番よく説明できるからといって、それを支持する気にはなれない。できれば、どこかでうまくやっていて欲しいと思うけれど、それも身勝手な願いだ。わたし自身、死んでしまったほうがいいと思っているのだから。

わたしは、どうしてまだ生きているのだろうか。生きることは悪い習慣である、なんて言ったこともあったっけ。いまでも、わたしの中にはその通りだと思うわたしがいる。いや、そう思っているわたしがわたしの中のほとんどを占めているのかもしれない。

生きることになんの意味があるのだろう。この宇宙に意味はない、とわたしが言ったところで、激怒するひとは少ないだろう。少なくともこの国では。しかし、君の人生について同じことを言った場合、どうだろうか。まあ、そうだろうね。と言うのが大半だろう。もうみんなはっきりと知っているのだ。本当に? 自分の人生に意味などない、と言うのは簡単だが、いったいそれはどういうことなのだろうか。これは人生の意味を問うのと同じようなものだ。人生の意味が不可解であると同じく、人生の無意味さも不可解である。わたしにはなにも分からない。なにも答えを出すことができない。

わたしは死んだほうがいい。本当にそう思っている。しかし、生きることが無意味なら、死ぬことにだって意味はない。どちらにも意味がないのなら、もうなんだっていい。そんなことを言いたくなるのは、悪しき習慣を克服するのが、単に面倒なだけなのだろう。

まったく、一体わたしはさっきから何をごちゃごちゃ言っているのだろう。わたしはひどく疲れているのだ。わたしは歩き疲れてしまった。一日中、歩き通しだ。風邪を引いたとしても、安眠は許されない。歩くことだけが、わたしに許された行為なのだ。わたしは疲れてしまった。わたしはやがて、斃れてしまうだろう。わたしはその時が来るまで歩くだけ。待ち望むでもなく、恐れるでもなく。

「死んでしまいたい」

一日に何度なら、死んでしまいたいと思ってもいいんでしょうか? わたしは何度も、死んでしまったほうが、多くの問題が解決するのではないか? いや、そうに違いない、なんで考えてしまいます。でも、べつにそれを実際にするつもりなど毫もありません。ただ、わたしの個人的な問題を解決する、ひとつの案として浮上してくるだけです。ですがわたしはこの案を、浮かんでくる度に退けているわけでもありません。この案には、わたしを惹きつける魅力があります。わたしをとりまくいろいろな問題を、一度にすっぱりと解決してしまうように思われるのですから。だから、わたしは自分のことを考えるとき、いつもこの考えが浮かんできます。では、どうしてわたしはこの案を受け入れて実行に移さないのでしょうか。それどころか、そうするつもりは少しもない、とまでわたしは言いました。それはどうしてなのでしょうか。わたしはこの問いに答えることができません。わたしにははっきりとした答えがないからです。わたしは、死んでしまうことによる解決を、あまりエレガントではないと考えているのかもしれないし、わたしは自分の問題の解決を望んでいないのかもしれません。あるいは、死ぬのが怖いのかもしれません。死の恐怖など、それによって得られる解決と比べれば、ものの数に入らないのかもしれません。そうでもないかもしれません。分かりません。わたしが死を選ばない理由には、こんなことも考えられます。死ぬことが問題を解決するということが疑わしい、とわたしは思っている、と。いずれにせよ、わたしは今日まで、自死を選んでいません。もしかすると、わたしがそうして死を選ばないことの理由を知るために、死を留保しているのかもしれません。この世には理解できないことばかりあります。死んでしまいたいと思っても不思議ではない、とわたしは思います。だから、別に一日に何度、死にたいと思っても構わないでしょう。それを病気だという人もいるでしょう。言わせておきましょう。見方によっては本当に病気なのかもしれません。しかしそんなこと、気に病む必要はありません。気に病んでしまったら、それまで病気でなかったとしても、病気になってしまいます。そうなると、ほんとうに死んでしまいます。自分でそれを選ぶことなく。わたしは、それは嫌だな、と思うのです。だからわたしは一日に何度でも、死ぬことについて考えて構わないと思うのです。

今週のお題「マイルーティン」