白昼夢中遊行症

断想

23:54 PM (10/13/22)

今日も仕事。明日からしばらく休み。ここ最近、何度も言っているが、仕事が休みだからといって、私自身が休めるわけではない。むしろ、仕事がないと私は行き場がないため、どこにも落ち着くことなく、ヘロヘロになりつつ彷徨うことになる。同じように疲れるのであれば、対価を得られる仕事のほうが、まだましだ。

なんて、愚痴をこぼしても仕方がない。時間があるのなら、私は私の仕事に取り組むべきなのだろう。私が、私自身の謎を解き明かすために必要な仕事、私が私であるための仕事、私が人生をかけてやるべき仕事を。人が生きる理由というのは、そうした仕事にある。そうした仕事なしには、人は生きる理由を失う。もっとも、生きる理由がなくとも、人は生きることができるので、そうした仕事は必ずしも必要ではない。

しかし、やはり時間があるのなら、そうしたことに手をつけるべきだろう。しかし、これまでの語り口から分かるように、私にとってそれがいったいどういうものなのか、明らかではない。私は、私という存在の謎を明らかにするために、なにをするべきなのだろう。

漠然と、私はなにか、なんらかの世界をつくる必要がある、との思いがある。しかし、なんらかの世界、とはいったい何なのだろう。そして、それはいかにして作られるのだろうか。ともあれ、私は何かを作りたいのだ。というか、何かを作らなければならない。そんな気がしている。自分で自分の命を断つことを決断したとしても、その前にそれだけはしておかないといけないというような、この気分は私の心のそんな位置にある。つまるところ、ずっともやもやしているのだ。死んでも死に切れないくらいに。といっても、実際に死にたくなったのならたぶんなんの躊躇いもなく死ぬし、そもそも、戦場か何かで人を殺すことを強制されない限り、自分で自分の命を断つことはまずないのだけれど。

まったく、何を言っているのだろう、いったい。生きるとか死ぬとか、まともに考えたことはないくせに、すぐにそうした大袈裟な言葉に頼ってしまう。私の悪い癖だ。すまないが、こんな言葉は聞き流してくれ。気を付けていても出てしまうぶんには、大目に見てやってくれ。私ももうちょっとばかり、気をつけないとな。

0:29 AM (10/14/22)

今日は早いこと記録にピリオドを打って、眠ってしまおう。そんな日があってもいいはずだ。

断想

0:06 AM (10/13/22)

今日は仕事。午後にものすごい眠気に襲われ、30分か60分近く仕事にならなかった。日記を書くことは精神的な充実を与えてくれるが、そのために時間を取る必要があって、時間をどこから取るか、となると、どうしても睡眠時間から、ということになってしまう。困った。

定時で仕事場を抜け出して、喫茶店に寄る。コーヒーとケーキのセットを頼む。ここ最近は、遅い時間にカフェインを摂取する習慣がついており、それも睡眠時間を減らす一因になっているのかもしれない。パヴェーゼの『月と篝火』を昨日から読み始めている。昨日はまるで本が頭に入ってこなかったが、今日はまずまずだ。この話の空気感にも、だんだんと馴染みはじめてきた。わたしにとって本を読むことがどういうことなのか、わたしはなにを求めて、というか、わたしはなにが面白くて本を読んでいるのかということを、ここ最近、考えることがある。そのことについてなにかまとまったことを書くには、もう少し考える必要がある。

書くためにはある程度、あらかじめ考えないといけないと思うようになった。と、この言い方は少し違うか。なんだろう……こうかな。すでに自分の中で考え終えたことを書くべきだ。ということか。というのも、書くことは、思考に言葉という枠を与えてしまう。言葉になった時点で、言葉では言い表せない自由な部分が、すべて切り落とされてしまう。そういえば、そのことについて、田村隆一の有名な言葉があるではないか。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
——「四千の日と夜」より

あるいは高橋源一郎が、もっとはっきりとした言い方で、そんなことを言っていたと思うのだが、あいにく今は消灯しているから、その記述を探しに行くことはできない。

でもまあ、そういうことだ。一の言葉を発するために、千の言葉を殺さなければならない。だから黙っているべきである、というのは違う。しかし、いい加減な言葉を選んで、言葉とその精神を無駄死にさせてはいけない。

まだ生まれて間もない思考を、考えなしに言葉にしてしまったら、そこでその思考は死に、そこから広がることはなくなる。書くことによって考える、というのもあるのではないか? まあ、そういうのもある、ということは否定しない。否定はしないが、考えるために書いたとして、書き始めるまでどれくらい時間が経っているだろうか。それまでの間に、虚空で自分の思考とすこしも遊んでいないということはないのではないか? まずは沈黙のうちに頭の中で考え、そしてそれが短い言葉になり、短い言葉が溜まってきたら、それを積み木遊びのように、さまざまに並び替え組み合わせてみているうちに、それがあるべき姿がぼんやりと見えてくる。少なくとも、文章として書き始めるのは、そうしてぼんやりと形が見えてきてからではないか?

まあ、この話によって誰かを諭したいわけではないのだ。そうではなく、わたしは、書くことによって考える、ということを誤解していて、それによって色々と、自分の思考の新芽を刈り取ってしまったように思う。ある冴えたひらめきが奇跡が蒔いた種だとして、それに水をやり育てるのはわたしだ。もっとしっかり育てないといけない。思考を言葉にするのは、剪定のようなものだ。それは部分を切り落とすことによって、形を整える作業だ。また、そうすることによって、よりよい成長を促すものだ。しかし、何はともあれ、それをするのはある程度育ってからのこと。その時が来るまでは、静かに、愛情をもって育てなければならない。

わたしが日記をこんな夜中に、睡眠時間を削ってまで書かなければならない理由のひとつも、そこにある。つまり、書くためには、あらかじめ思考をある程度まで巡らせておかないといけない。その日考えたことを、言葉にしてもいいくらいにまで育つのを待つとなると、眠る直前まで、ということになるわけである。

さて、今日はまずまずだ。わたしは喫茶店を出て、自分の塒まで歩いていく。電車で一駅ぶん、夜の音を聞きながら。そうしたい気分だった。わたしはONKYOGRANBEATという、ポータブル・オーディオプレーヤーのおまけにスマートフォン機能がついたようなものを買って、最近はそれを持ち歩いているが、外で音楽を聴くことは、それも夜道を歩くときに音楽を聴くことは、依然としてまれである。それは危険だからというわけではなくて、その必要がないからだ。人が少なくなってくると、自然の音楽が聞こえる。最も聴く値打ちのあるものは、世界が奏でる音である。わたしはそれに耳を傾けて、自分の心を瞶めて、いつもの早足で、自分の眠るところへと歩みを進めていった。

断想

「この人生は生きるに値しない」

わたしはこの言葉が好きではない。なぜなら、まるで生きるに値する人生があるみたいに聞こえるからだ。

あるいは、そうした人生があるのかもしれない。しかし、それはおそらく血に塗れていて、それでいてそれを直視しないものだろう。

それに、そもそも人生について、人間の尺度で測って、一定の価値をつけられると思い込んでいるところからして大きな思い違いをしている。思い違いをすること自体は仕方ない。しかし、自分は思い違いをしているかもしれない、などとすこしも思わず、人生の無価値をまるで世紀の大発見のように誇らしげに掲げるのは、見ていていたたまれない気持ちになる。

そんな姿を、わたしはあのとき、一緒に飲んでいた友人の目の向こうに見ていたのだろうか……

断想

0:08 AM (10/12/22)

今日は歩いた。朝、喫茶店から出て、そこで見た空がどうしてかわたしの心を打った。なんだか気持ちが軽くなって、午後にはいつもと違う方面へ歩いていった。橋を渡って東へ。とてもいい気分だった。墓のある寺へ行ったまではよかった。たまには行ってみるか、と軽い気持ちで北のほうへ行った。坂の上にある、有名な寺のほうへ。この判断が誤りだった。まともに歩けないほど、人で溢れかえっている。ここだけは2020年以前と変わらぬ景色。綺麗なのは空の色だけだ。その空も、曇りだした。くもりぞらも、嫌いではないけれど……

まあ、こんなこともある。そこからさっさと離れてしまえば、なんてことはない。わたしは排除された人間だ。こんなことには慣れている。

階段を勢いよく降りて、膝を少し痛める。この身体も次第に古くなって、いつかは使えなくなるだろう。それまでは歩く。生き急いでいると言われたこの足取りで、わたしは歩き続ける。

そう、いずれ歩けなくなるまでは……

——歩くこと、夢を見ること
わたしをわたしにするのはそれだけだ。

断想

0:56 AM (10/11/22)1

1

もうすでにこんな時間だから、今日の記録は簡単なものにしておく。そもそも、とりたてて語るような出来事もない。

2

今日は仕事のある日だった。祝日だったらしく、朝の電車は空いていた。電車内では本を読んでいた。これなら、通信する必要がない。まあ、出勤時の電車内で本を読むのはいつものことだが。

3

わたしはなんの役にも立たないとされる本を読む。文学なんて、なんの役にも立たないので流行らない。みんなビジネス書か、自己啓発書か、ライトノベルか何かを読んでいる。あるいは何か、資格試験の教材とか。わたしはそうしたものを、まったく読まないというわけでもないが、少なくともビジネスに役立てるためにはビジネス書は読まないし、何かに気づくためには自己啓発書は読まない。こうした本のトレンドがふと気になって、興味本位で読むくらいだ。ライトノベルだけは、たまに軽い小説を読みたくなって、軽い小説を読むために読むことがあるが。

4

……あーなんか、話がよくわからん方向へ逸れている。もっと、今日わたしが見て、考えたことを書きたい。そうして満足して、なるべく遅くならないうちに眠りたい。

5

仕事には昼休みがあるが、食事をとるだけだと時間が余るので、通信制限のかかっている回線でも読むことのできる、青空文庫を見ていた。青野季吉「百万人のそして唯一人の文学」2という文章。これは、純小説と通俗小説について書かれた文章だが、わたしは知らず知らずのうちに、「小説」というところを「日記」に置き換えて読んでいた。「純日記」に対比される「通俗日記」なるものが、このインターネット上に溢れてきていて、それがあたかも普通の日記のように大手を振っている。インターネット上で日記を書こうという人のほとんどが、「通俗日記」の書き手であることを目指す。それに対して、「純日記」を書こうなんて人はいなくなった。……そんな読み方をしていると、自分もまた、この話の当事者のひとりのように思えてくる。しかし、わたしが書く日記というのは何なのだろうか。通俗的ではないだろう。しかし、純粋な日記かと言われると、どうだろう、そうでもない。ように思う。しかし、わたしが日記を書く心持に関していえば、わたしは「百万人の日記」をまったく問題にせず、まずもってわたし一人のために書いている。その点では、わたしが書くものも「純日記」に位置付けられるのかもしれない。とはいえ、そもそも「百万人のそして唯一人の文学」は小説に関して書かれたもので、日記に関するものではない。小説と日記は似ているかもしれないが、アナロジーはどこまで成り立つものなのだろうか。というか、自分の書くものが何であっても構わない。わたしはわたしの書きたいように書いて、勝手に苦しみ、勝手に救われる。いや救いもなにも求めていない。書きたいから書く。それだけだ。


  1. 日付が間違っていたので訂正。この記録は日付が変わって10月11日になってから書かれた、10月10日の記録なので、次のように訂正した。(正:“10/11/22"、誤:"10/10/22")【2022-10-11 16:06訂正】

  2. https://www.aozora.gr.jp/cards/001542/files/52214_46221.html

いまさらONKYOのGRANBEAT(中古品)を買う

中古品の「ONKYO GRANBEAT」を購入した。

ことの経緯はこうである。

      *

今月は仕事がないぶん、外でほっつき歩くことが多くなった。わたしは気になったことはすぐに調べないと気が済まない質で、歩きながら思いついたことを調べたり何やらしていたら、知らぬ間に通信制限のかかる通信量に達していた。

これはまずい。わたしは、現代っ子なので、インターネットに繋がっていないと不安になる。今月は仕事がほとんどない。仕事はほとんどないものの、平日は家にいてはいけないしきたりになっているので、休みだろうとなんだろうと、外で時間を過ごさないといけない。そんななか、何かが気になったときにそれを即座に調べたり、とにかくなんでもいいから有意味な文字列を見たくなったときなどに、インターネットにつながっていないとその欲求を満たすことができない。この手の欲求を即座に満たすことに慣れきった現代っ子のわたしは、それが失われることを、ひどく恐れていた。これはまずい。

そんなわけで、なんらかの手段によって対処する必要があった。どんな手段で? フリーWi-Fi? だめだ。これは「いつでも即座に」というわけにはいかない。フリーWi-Fiのある店に入り浸るとか、ネットカフェか何かに入り浸る、というのも考えたが、一処に居続けるのはなかなか苦手だし、けっこう金がかかるように思われた。実際のところはわからないけど。それに、ネットカフェに関しては、まったくの未知だった。馴染みのないところを、わたしはむやみに恐れる習性がある。では、自分が契約しているキャリアで、通信容量の買い増しをするのはどうか? しかし、なんだか割高のように思われた。

あんまり馴染みのないことは避けたい。割高なのもなんか嫌だ。そのうえで、いつでも即座に自分の欲求を満たすとなると、価格の安いMVNOと契約するのがいいのだろうと、ぼんやり思う。だが、自分の持っている携帯端末が他の回線や、その会社の回線でも他社で契約したものを受け入れるかどうかは不確かだ。それに、自分の番号に電話がかかってくる可能性もあるので、単に格安SIMを購入するのでは不十分だ。SIMカードを挿入することのできる何かが必要だ。モバイルルーターか、スマートフォンか。

ふつう、モバイルルーターを選択するだろう。目的に対して、果たす役割が必要かつ十分であるからだ。しかし、わたしはふつうではなかった。わたしはふつうではなかった。わたしは、余計なものを欲しがった。というか、以前からそれを、いつかは欲しいと思ってたのだ。そして、それはわたしの現在のニーズを満たすことができるものだった。それはスマートフォンで、SIMカードを2枚挿すことができる。2枚挿す必要はないが。テザリング可能なので、モバイルルーターとして利用することもできる。わたしは、わたしにしては異様に早い決断でamazonのカートに入れて、購入した。わたしはどうかしていた。

      *

というわけで、わたしの元には、ONKYOGRANBEATがある。中古品で、筐体には目に見える傷がいくつかあるが、構わない。電池にも大きな問題なさそうだ。イヤホンジャックの接点にも問題はない。使っているイヤホンのひとつとの接触が悪かったが、他のものを2,3試した限り問題はなく、おそらくイヤホン側、正確にはケーブルのプラグの問題だろう、ということになった。2.5mmのほうにも問題はない。SIMカードやSDカードも認識する。ソフトウェアのユーザビリティにもおおむね問題はない。音は、文句のつけようがない。

ああ、余計なものを買ってしまった。どう考えてもインターネットに接続するのなら、モバイルルーターの方がよい。むしろ、その点では大間違いの買い物をしてしまった。後々、やっぱりこれではだめかな、となると結局モバイルルーターを買ってしまうかもしれない。

だが、このGRANBEATという、他にはない唯一のスマートフォンが発しているなんともいえない魅力に、わたしは何年も取り憑かれていた。年月が過ぎ、この後に続くものが現れないことの確信が固くなるにつれ、その魅力はますます大きくなっていたように思う。そんな中、わたしは中古品で20,000で売られているそれを見つけたのだ。わたしはSIMカードの入る何かを探しており、それで口実は十分だった。

わたしは軽率だった。しかし、わたしは満足している。この満足が自分の誤りを覆い隠すためのものであることを、わたしは知っているが、それがどうした、とわたしはわたしに言う。わたしに相応しいのはこういう、どこかに突き抜けたものだ。優れているが、有用ではないものだ。いや、有用ではあるが、その有用性が少しずれているもの——物好きしか見向きしないものだ。わたしは物好きなのだろう。しかし金がないので、一足もふた足も遅く、そのうえで口実がないと、なかなかこうした必要のないものは買えない。わたしは、実際的な有用性を絶対的な価値と認めるわたしが、わたしのこの判断を大間違いだと嘖むのを聞く。しかし、たまにはこうしたことが、それも、こうも圧しつぶされて、押し除けられて生きているこの頃だからこそ、こうしたものが必要だ。そうだろう?

今日はなんにもしなかったです。今から何かしようとしても遅いので、眠ることにします。なんにもしないなら、眠るべきだ。ただでさえ、ここ最近眠れていない。眠ります。明日のことは、まあどうにかなるでしょう。明後日も、明明後日も。そうやっていれば、人生だってきっと終わってくれる。とにかく、眠ります。眠たいうちに、眠ります。本当にそうするつもりです。眠れないわけない。こんなに眠たいのだから。眠りましょう。また明日。