白昼夢中遊行症

「この街は死んでいる」

二月十二日

雲は晴れて太陽と青い空があらわになっていた。ぼくは眩しい日差しに目を伏せて、いつもの商店街へ歩いていた。

商店街のアーケードに入ると、大学生くらいの男三人組が古い映画のポスターなどのある店から出てきた。

横並びに歩いて邪魔だなと思いながら、少し歩調を早めて追い抜こうとしたとき、

「この街は死んでいる」

と三人連れの若い男のどれかが言った。

そうか、死んでいるのか。

その前後の会話は聞き取れなかった。発音が悪すぎた。口をもっとはっきり動かせ。

しかしはっきりと、日本語で、

「この街は死んでいる」

と言うのだけは聞いた。

ぼくは彼らをなんとか隙間をぬって追い越したあと、それはどう言う意味なのだろうかと考えた。直接彼らに問いかけたらよかったのだろうが、残念ながらぼくは、仲良くみんな似通った髪型にしている、三人組の男の間に割って入る勇気を持ち合わせていなかった。

「この街は死んでいる」とは、どういうことか。死んだ街があるならば、生きている街もあるということか。そんなの、見たことも聞いたこともないぞ。生きた街ということは、飲んだり食べたり、ウンチしたりするってことか。街がウンチしてるのなんて、話に聞いたこともねえや。

……

 

死んだ街ってのはそのままGoogleで検索すれば、ゴーストタウンについての記事がいくつかヒットする。つまり、住んでいる人間のいない街ってことだ。しかし、それを死んだ街というなら、あの男の言葉には誤りがある。その商店街にはまだシャッターが降ろされていない店がいくつもあるし、周辺には住民もいる。

老人ばかりが目につくから、じき死ぬのを予見して言ったのかもしれない。しかし、そう簡単に街が死ぬだろうか。その商店街、店を出しているのは昔ながらの人たちだけではなく、新たに若い人が始めた店もある。そういった店には若い人が集まってきている。ぼくがこの周辺に転がり込んで二、三年だが、その間にも、何軒か新しい店ができた。街の景色は日々変化している。

彼らはふらっと立ち寄ってきたよそ者だからそれが見えなかったのかもしれないが、この街は生きている。そもそも死んだ街をぼくは知らない。アメリカとかロシアとか、それくらい広ければまだわからんが、日本だぜ?と思う。ぼくもこの街に来て少ししか経ってないし、もう二、三年したら出て行くつもりのよそ者だが、死んでいる、なんて言葉はちょっと短絡に過ぎるんじゃないかと思った。

ただ、ぼくもこの街に来た当初は、えらく寂しいところだなと思ったし、今でもたびたび不便さに直面して、愚痴をこぼすこともある。こういうことがあるたびごとに、立ち止まってじっくりと周りを見渡してみること。そこにある、そこにしかない良いところ、というのを見つけ出すこと。そういったことができるひとにぼくはなりたいと思った。