白昼夢中遊行症

立ちつくす僕

ぼくはどうしようもなく子供だ。体ばかりが大きくなってしまった。ぼくは物心ついた頃から足踏みしている。ぼくはなぜ、ここに立っているのか。ここに立っているのが、どうしてぼくでなければならなかったのか。そんな問いかけを二十余年、うんざりするくらい繰り返して未だ答えは出ず、しかもその問いに固執して、そこに納得がいくまで前に進もうとしない。

残念ながら、ぼくは人の子に生まれてしまった。ということを安易に受け入れることができなかったから、人間として生きるということに何かしら難癖をつけて、目の前の問題から目をそらした。〈おれがいつ、人間として生きることに同意したと言った?〉

そうだ、何があっても最後はそこに行き着いた。ぼくにとってそこは駆け込み寺のようなものだった。そもそも真っ当に生きる気なんてさらさらないのだと言って、何もしないことを選んだ。

花や石がうらやましかった。そこに存在するということに疑念を挟み込む余地がない。花や石は、そこにあるからあるのだ。人間はどうだ。誰でも、自分の存在する理由について考えたことがあるだろう。ぼくはそこで立ち止まってしまった。立ち止まったからには何か納得のいく答えが欲しかった、というのは何もしないでいるための体のいい言い訳か。

なんにせよ、ぼくは人間として生まれてくるべきではなかった。もしぼくが花であったなら、花として生きることに幸せを覚えただろう。本当にそうだろうか。

ぼくは花として生まれたとしても、人間はバカみたいに動いて、物事を考える隙がなさそうでいいよな、なんて羨んでいたかもしれない。そうだ、暇なのがいけない。何にもすることがないから、石ころみたいに生きているから、余計なことを考えてしまうんだ。

だけど、いまさら日々を何かで埋めることはできない。そんなことをしたら、というより、埋め方がわからないし、倦怠がそうさせてくれない。倦怠がぼくに余計なことを考えさせる暇をつくり、ぼくの考えることは倦怠感をできるだけそのままにしておくことを正当化するようなことばかりであった。

ぼくはこうして十年後も、二十年後も大きい子供のままでいるのだろう。罰を受けたシジフォスのように、あるいは賽の河原で石を積む子供のように、堂々巡りの日々を積み重ねていくのだろう。そして、積み重ねた日々は崩されて、それでも何事もなかったかのように同じような日々を始めるのだ。それは、果てしなく続く、いつ終わるとも知れぬ刑罰。

……

 

 パリ。
上の階に住んでいた女が、ホテルの中庭に身を投げて自殺した。ある借家人の話によれば、彼女は三十一歳だった。生きることにはもう倦きあきしていた。それにもし彼女がもう少し生きたにしろ、結局は死んでしまうのだ。ホテルのなかには、さほどの惨事の暗い影がのこらずまだ尾をひいていた。彼女はときどき下に下りてきて、宿の女主人に、夕飯にひきとめてくれるよう頼んでいた。彼女は女主人にいきなり抱きついたこともあった——なにかの存在と、ぬくもりが欲しかったからだ。それも、額にあとを残した六センチの裂傷で終ってしまった。死ぬ前に彼女は言った。《やっとよ!》

カミュ『太陽の讃歌』