白昼夢中遊行症

断想

おれはじっと耐えているだけ。奪われる側の人間になってしまった。 奪われる側の人間よりも、奪う側の人間が承認される世の中で、いまのおれは生きづらい。 そしてますます、いろいろなものを奪われ、それを身じろぎもせず、耐えているだけ。

なんてことを言ってみたけれど、こういう言い方、おれは嫌いだな。どうして自分は奪われる側だなんて、なんの恥ずかしげもなく言えるのだろうか。おれは、奪われている以上に、多くのものを奪って生きている。おれは、というか大半の人類はそうだ。とりわけ、豊かな国に生まれた人間は。

大江健三郎を思い出せ。「ヒロシマ・ノート」しか読んでないけど。彼についての記事を最近読んだ。

大江さんは、返還前の沖縄で本土の人間から差別されている人たちに、「自分だけは正しい善人として、沖縄県民に共感し、連帯する」という書き方を決してしないんですね。自分自身も沖縄に強いている構造的な暴力に加担している日本人の一人なんだという立場から、「自己批判」を通じて日本人を批判するんです。

生きているだけでも、誰かから何かを奪い続けている。そのことに自覚的でいなければいけない。そうでないと、さっきのような、自分が、自分だけが被害者であるかのような、恥ずかしいことを恥ずかしげもなく書いてしまったりするのだ。

気をつけていないと、こうしたことが口を突いて出てしまう、ということにも自覚的であるべきだ。というか、まずはそこからか。

とはいえ、それで卑屈にならなければいけない、というわけでもない。どうにもならないことなのだ。どうにもならないことを、どうにもできないからといって、落ち込んでもどうにもならない。

どうにもならないので、せめて自覚的でいるべきだ。そして、馬鹿なことを言っていないかどうか、気をつけておくべきだ。口を突いて出た馬鹿なことが、誰かを害するかもしれない。

そして余裕があるなら祈れ。キリストにでも祈っておけ。キリストはこうした罪を肩代わりして十字架にかけられたのだったと記憶している。
知らんけど。

しかし、全人類の罪を背負って十字架にかけられたまではいいのだが、なんで復活したんだろう。これがアニメか何かだったら、ご都合主義すぎて炎上すると思う。

ちなみに、キリストがどうとか言っているけど、聖書、読んだことありません。おれはおれの中にだけ存在している、〈幻影としての書物〉について話しています。

おれの幻影の聖書は、本物の聖書とはたぶん全然違うと思う。おれの中の聖書では、神様はうつ病になっちゃったけど、本物の聖書にそんな記述があったとは聞かない。

あれ、またデタラメ言ってる……
嘘はよくない。この文章のどっからどこまでが嘘なんだろうか。

少なくとも、おれの中の聖書にも、神様がうつ病になったなんてことは書いていない。
そうではなく、おれは、おれの中の聖書から、神様はたぶんうつ病になっちゃったのではないだろうか、と解釈したに過ぎない。

しかし、幻の聖書を繙いても、真っ白なんだよな。
一体どこからこんな解釈を持ち出したのか。
キリストについても然り。

でもまあ、とりあえず、自分が書いたもので、気に食わないところがあったから、それを槍玉にあげたまで。これは見つけたらすぐにしておかないと、スッキリしないからな。