白昼夢中遊行症

断想

かつて通っていた中学校の校舎が、取り壊されて更地になっていた。中学生の頃のことについて、いまさら思い出すことなどないけれど、こうして私の過去の痕跡が、形もろともなくなってしまうというのは、寂しいものだな。私が通っていた小学校も統合されてしまい、建物も学校名も校歌も無くなってしまった。それに続いて中学校も、無くなってしまった。在学中、両手で数えるほどしか歌った記憶のない校歌も、もう受け継いでゆくものはいない。この世界、生きていれば、似たようなことはごまんとある。いちいちこんなことにしんみりしていたら、生まれて死ぬまでずっとしんみりして生きていくしかないのだけれど。こうして私が私の記録を書いているいま、また一つ宇宙のどこかで星が死んだ。それに涙する必要が、私にはあるだろうか。

しかし、死というのは果てしないものだ。いや、生きていることの方が特殊で不安定な状態で、しかし我々は思考するとき、必ず生きているので、ついつい生きている状態を既定値と見做してしまう。だが、生きていない状態がまずあって、そこからなにかの間違いで生命活動なるものが始まるのだ。死ぬということは、元の状態に戻るということだ。だから、死が果てしなく思えるのも当然だ。人間、いや人間に限らず、生命あるものはすべて、生きていない時間のほうが長いのだから、死を想像して途方に暮れるのも無理はない。それに恐怖して、心の拠り所として宗教を作るのも理解できる。

土塊か海の藻屑か、そんなものが何かの間違いで一定の形を持ち、生命を持ち、知能を持ち、そして自分自身の生い立ちやら行末やらについて考えるようになる。そんな偶発事の奇妙に作為を見出し、神なるものを想像するのも、想像に難くない。

この前、私の親戚がまたひとり死んだ。私の生命活動が開始して以来2人目だ。ここ近年、弱っていたらしいのだが、私は何も話を聞いていなかったので、急な報せだった。つい何年か前、盆か正月かに顔を合わせて、まだまだ元気だと思っていたのだが。涙を流す親族もいたが、私はやはり何もなかった。私もそんなふうに思い出話をして涙のひとつでも流したかったような、そうでもないような。

その人は盆の前に亡くなった。盆にはその霊魂は帰ってきたのだろうか。霊魂だなんて、浄土真宗には馴染まないか。まあ、霊魂なんて考えないほうがあっさりしていて私は好きなのだが。霊魂がないのであれば、盆は何のためにあるのか。記憶しておくための儀式のようなものか。しかし、記憶していたって仕方ないのではないか。全てを記憶していたところで、どうせ100年も経たないうちにパーになる。生まれた時には既に、運命の糸は切られているのだ。それを避けることはできない。仕方のないことに、嘆いたり悲しんだりすることに、なにか合理的な理由はあるのだろうか。合理的でなければ泣けないわけではないけれど、今のわたしは、何が悲しいのかわからなくなってしまっている。これでいいのか悪いのかはわからない。

また、宇宙のどこかで星が死んだ。私はそれに涙を流すことはない。