白昼夢中遊行症

断想

もう秋だ。朝晩が、ともすれば寒いと感じられるほどに涼しくなった。
間違いなく、これは秋だ。

今年の夏も、私は詩や文学とは節度を持った付き合いをしてきた。
「もう秋か(ロトン・デジャ)」とだしぬけにつぶやいて、リリシズムの極限に落ちてゆくことはない。

私は夕暮れ道を歩く。ランボオの詩ではなく、仕事のことを考えながら。今日やったこと、やり損ねたこと。明日はどうしようか、おれはこの仕事を続けていけるだろうか。

空を見る。電線が川を横切って空に黒い線を引いている。

電線は景観を汚しているのだろうか、それとも、物足りない空にノスタルジックな効果を与えているのだろうか。

街灯やマンションの灯りは、夜から闇を追い出して、ついでに星々を覆い隠してしまったのだろうか。それとも、あれらの光がぼくらの新たな星なのだろうか。

気づけば寒くなっていた。秋は悲惨、冬は安楽か。ランボオを、おれは読んだことがない。べつに読んでもよいのだが、なかなか順番が回ってこないのだ。こうして、順番が回ってこないまま、死に先を越されるものがいったいいくつあるのだろうか。

ランボオにとっては、秋は悲惨だそうだ。わたしは昔、秋を倦怠の季節だと言ったことがあった。けれどもそう言った頃のわたしは、季節を問わず倦怠感にとらわれていた。わたしは、何もかもが面倒くさくって、ほとんど寝て過ごしていた。いまは?

いまは、そのときに比べれば、いくぶん元気なのだろうか。とはいえ人生を、生きてゆけると楽観できるほどでもなく、むしろ不安なことばかりだ。そして過ぎていったあらゆるもの、それらがなんであったかすら、すでに遠くに行ってしまってわからないけど、それらが残していったぼんやりとした印象に心を惹かれ、永遠の停滞のなかに、稍もすれば自分を引き込んでしまいそうな日々。

それでも、それでもまだすべてが終わったわけではない。どこかで生きているのだ。当たり前に明日があると思うな、と思いながらも、やってくるのは当たり前の明日だ。出会いも別れも当たり前だ。誰かや、自分の死すらも。かといって、今日死んだ人びとのかなしみを、まったく無視できるでもない……

そんなことを考えながら、今日という日が暮れてゆくのを見た。それを見て、今年もまた同じように、黄昏どきに差し掛かったのを感じた。おれは夕暮れ道を歩いていた。