白昼夢中遊行症

Πετριχώρ→Οσμάνθος

帰路、マスクを外して歩いていると金木犀の香りがした。ああ、これがキンモクセイだ。そうだったな。そしてこれが10月だ。

マスクをつけていたここ数年、嗅覚から季節を知ることができなくなっていた。季節の匂いを知らない子どもたちはこの数年、それを知る機会を逸してしまったともいえる。

そんな子らに教えてやろう。いや、教えるまでもなく、この世界が教えてくれるだろう。これが10月、これが暮れゆく季節の匂いだ。

10月か。どうしてか、この頃になると日記を書く頻度が上がる気がする。そう思ったが、実際に記録を見返してみると、増えていたのは去年と今年だけみたいだ。となると、たんなる偶然か。しかしこれを必然と考えるならどうか。なぜ、10月は日記を書く頻度が上がるのか。

それはやはり、この時期が、終わりを感じさせるからだろう。何かが終わる気がするのだ。何が?

夏というのは偉大な季節だ。それは、そこにあるときではなく、去ったときにより強く思われる。夏は、去ってから惜しまれる。あんなにも疎ましかった夏の暑さ、うるさい蝉の声、強すぎる日差し、夕立ちとペトリコール。夏がいなくなると、一気に寂しくなる。人生が終わるような感じがする。いまさら惜しむような人生ではないが、それでも終わるとなると、何かちゃんと仕舞ってやりたい。そんな思いが、あるのだろうか、それともこれは、思い込みか。

何かが終わるのだ。いま、何かが終わろうとしている。何が終わるのか、わからないが、それを留めておく方法があるとすれば、それは書くことだろう。それは無駄なことなのかもしれない。しかし、それでもささやかな抵抗の姿勢として、書き残すのだ。