白昼夢中遊行症

Sonata su un Appunto (sul Diario)

私は今日、歯を磨きながらこのようなことを書きつけた。

日記を読んだところで、過ぎた日々がここに甦ってくることはない。したがって、日記を書いたところで、永遠の命が得られるわけではないのだ。永遠の命が得られないのであれば、人は、なぜ日記を書くのだろうか。

断想 - 白昼夢中遊行症

シャワーを浴びて、私は改めてこれを読む。私は、なんて意味のないことを書いているのだろうか、と思う。それと同時に私は、日記を書く理由についての問いかけを、このように書いた私のことが、よくわかるような気もする。

たしかに、この文章は意味がわからない。この文章は、ふたつの主張とひとつの問いかけからなる。ふたつの主張とは、以下のものである。

  • 主張1: 「日記を読んだところで、過ぎた日々がここに甦ってくることはない」
  • 主張2: 「日記を書いたところで、永遠の命が得られるわけではない」

これらふたつの問いは、「したがって」という順節の接続詞で結合されている。つまり、「主張2」は「主張1」から導き出されているということになる。そして、これらふたつの主張を前置きとして、次のような問いかけがある。

  • 問い: 「永遠の命が得られないのであれば、人は、なぜ日記を書くのだろうか」

「永遠の命が得られない」という「主張2」の内容を引き継いで、その事実を受け入れるのであれば、「人は、なぜ日記を書くのだろうか」というのである。これが疑問文であるにせよ、反語であるにせよ、「永遠の命」が日記を書くことの動機であるということが暗黙に前提されているようだ。

ここまで読んで、どうか。おかしいところはあっただろうか? たくさんある。まず、「主張1」だがこれは別段、新しいことを我々にもたらすことのない主張だ。日記を読んだところで、過ぎた日々が甦ることはない。たしかに、日記を読むことで、過ぎた日々のことを思い出すことになるかもしれないが、だからといってここにそれが現れるわけではない。そんなことを真面目に言う人がいるとすれば、そいつは碌でもないロマンチストだ。現実を見ろ。

「主張2」も同じだ。日記を書くことで永遠の命が得られるなんて思う人はいない。「主張1」から「主張2」への導出もまた、怪しいものだ。ふたつの主張を「したがって」で繋ぐには、足りていないものが多すぎる。論理的に飛躍している、ともいえる。

で、「主張2」を引き継いだ「問い」だが、問いの内容はともあれ、その問いかけ方は、前述したように「永遠の命」が日記を書くことの動機であることが暗黙に前提とされている。これもおかしい。日記を書く人に、なぜ書くのか問うてみて、「永遠の命を得るためだ」と真面目に答えるような人はいないだろう。だから、「永遠の命が得られないのであれば、人は、なぜ日記を書くのだろうか」という問いかけは、一体全体どういう人を念頭に置いて問いかけているのか、まるでわからない。

「意味がわからない」と思ったわたしは、およそこんなことを考えたわけだ。しかし同時に、わたしはこのような問いかけをしたわたしの文章に、理解を示しもしたわけだ。それはなぜか?

それは、ときに人が非常に大きな期待をもって日記を書くことがある、ということを知っているからだ。その期待はしばしば、「永遠の命」にも似て、実際に日記を書くことによって得られる価値をこの上もなく上回るものである。

永遠の命を得るために日記を書くのと同じくらい、他者の目には滑稽に映るような望みを、日記に抱く人がいる。しかし、そうした人たちも、実際に「永遠の命」を得られることはないことは知っているのだ。そのことは、たとえば自分が日記を書いてきたことを、それによって積み上げられた記録の蓄積を読むことで振り返ってみたときに、否応なく実感させられる。自分が寄せる期待に対して、積み上げられたものの貢献は非常にささやかで、まったく何もないのと同じくらいだ。

日記を書くことにはなんの意味もない。しかし、それでもなお、「永遠の命」を願って日記を書き続ける人がいる。

そうした人に、わたしは問いかけているのだ。「なぜ?」と。

「永遠の命」を願って日記を書く人とは、私のことかもしれない。そして、私の引用した文章を読んで、何かの意味を感じとった人もまた、そうした人の、ひとりかもしれない。

そんな人たちに、わたしは尋ねてみたいのだ。

永遠の命が得られないのであれば、人は、なぜ日記を書くのだろうか

わたしは、ずっとこのことを考えている。