白昼夢中遊行症

断想

何もなかった日には、何もなかったということしか書けない。ここ数日の記録は、何かあるように見せかけて、その実何もなかったことの記録である。

言葉を使い切ったおれはもう、何もないことに対して何かを言うこともできず、何もなかったとすらいえなくなって、口を閉ざすしかないのか。

しかし、おれは完全に黙ってしまうことはないだろう。これまで、何人も去っていった人々を見てきた。おれはその後を追うことはしない。おれは見送る側でいたいのだ。そして寂しさに胸を引き裂き、生きる傷みを感じていたいのだ。そうでもしないと生きている実感が得られない、さもしい人間なのだから、おれは。

しかし人は、なぜ去るのだろうか。わからないのは、そこなのだ。日記を書いていて、書き続けてきて、はたとそれをやめてしまう。それはなぜなのか。

誰にも読まれなくって虚しくなったか? 誰の心も動かすことはない無力に打ちひしがれたのか? それとも、自分の願いが叶わないと気づいてしまったからなのか? あるいは、単純に恥ずかしくなったのか?

いかなる理由であるにせよ、一度書き始めたのであれば、そんな理屈は通らないぜ。

一度書き始めたのであれば、誰にも読まれなくってそれをやめてしまうのは、読まれないことよりも虚しい。誰かの心を動かすことができないからとそこを去ってしまっては、無力感は増すばかり。願いが叶わないからと、願うことをやめてしまっては、祝福される由がなくなってしまう。恥じらい姿を消そうとすることはなによりも恥ずかしい。

書き始めたのであれば、書き続けなくてはいけない。その覚悟が、本当のところ、必要なのだ。

なんて大袈裟に言ってみたけれど、つまるところ、おまえらはおれを楽しませるために書き続けろよ、馬鹿野郎。と、そういうことだ。

そんなわけだ。まったく、恥ずかしげもなく……。