白昼夢中遊行症

断想

今日こそは本当に日記を書くぞ、と思ってこの文章を書き始める。などといった書き出しのメモが何日分も積み重なって、それは月に届きそうなくらいだ。

もはや今までの自分がどういう風に日々を日記として書き残していたか忘れてしまった。そもそも書き残すほどのことがあったのだろうか。しかしながら実際に毎日日記を書いていた時期があったのだから、おそらく何か書いていたのだろう。習慣というのがぼくには一つもなく、それは飽きっぽいというのもあるし、何か習慣づいたと思ったら、急に倦怠感に襲われて数日なにもできなくなって、そのまま習慣づきつつあったことも失われるということがままあるからだ。そのせいで、ぼくの人間性を語るものは何も無い。何も無いということこそがぼくであって、ぼくというのを何かで語ることはできない。

強いていうなら、夢を見る人間だ。毎日夢だけは見ている。できるだけ長く夢を見るために、遅刻ぎりぎりになるまで二度寝三度寝を繰り返す。そればかりではなく、二度寝ができるように、目覚ましを実際に起きる時間よりも3時間くらい早めにかけているのだ。そこから小刻みにアラームをかけて浅い眠りの中、だらだらと引き延ばされた夢を見ている。夢の中には何の脈絡もなく、ただただ心地よい世界があって、そこで何かを求めるでもなく、何者になるでもなく、空気のように漂っているのだ。そこで起きる出来事は些細な出来事ばかりで、起きたらその内容を忘れてしまうくらいだ。そんな無意味のさなかにぼくは生きていたいと思うのだ。だから夢ばかり見ているのだ。

ぼくというのは、だから、夢を見る人間とは言えるかもしれない。それは夢想家という点でもそうだ。起きている間にも、ぼんやりと空想ばかりにふけっているのだ。空想の中ではぼくは立派な人間であることができるのだ。何者かへの欲望なしに、ぼくは何者かで在れるのだ。しかし悲しいことに、それら空想でのぼくというのは非常に狭い想像力の中で限られたもので、例えば宝くじに当たったことを空想するとして、その金ですることといえば、いつも行くチェーンの定食屋で頼む定食を一段いいものにするくらいの空想だ。本質的につまらない人間がする空想というのはそれもまたつまらないことなのだ。

つまらないというのはやはりぼくが何も語るべきものを持たない人間だからで、それというのは何も今までに積み上げたものがなかったからだ。日記だってそうだ。途切れ途切れで、どちらかというと書いていない日の方が多い。継続して書いている時期なんていうのはほんの少ししかない。それでもやっぱり何か語りたいから、そのためにこうして日記を書こうとまた意気込んで、これを書いているのだ。

ゴールデンウィークがあったというのはすでに記憶から押し出されつつあって、しかしその中途半端に長い休みはぼくの張り詰めた緊張の糸を切り、ぼくの中に生まれつつあった習慣、大学の授業をちゃんと聞き、自主学習もちゃんとするという習慣を追いやり、倦怠感だけを残していった。休日の過ごし方があまり良くなかったのかもしれないがそもそもこんな休日なんかがあるからいけない。とはいえ、それは過ぎたことだ。なんとか立て直すほかない。ぼくがまたまともな大学生として、オランダ語の規則を思い出し、提出しないといけないレポートを書くには、オランダ語の規則を思い出し、レポートを書くしかないのだ。とにかく何か行動に起こさないといけない。その行動に移すというのがぼくにとっては一番難しい。その行動するという習慣こそが、連休以前のぼくの中に生まれつつあって、連休によって失われた習慣だ。これをなんとか呼び戻さないといけない。明日提出のレポートを、内容はともかくでっち上げないといけない。オランダ語の規則を復習して、練習問題でも解いておかないといけない。読まないといけない本を読まないといけない。そのなかで、合間をぬって日記もつけないといけない。

夢の中でならこんなことは難なくやってのけるのだが、残念ながら現実である程度憂いなく生きていかないといい夢は見られないので、なんとかやるべきことをやらないといけない。こうした考えでぼくは現実で生きることに折り合いをつけている。