白昼夢中遊行症

おれは自身の楽しみのために日記を書いている。

正直なところを述べると、おれが日記を書くわけとは、単に後から読み返してみるのが面白いからであって、記憶のためとか文章の練習とかいったたいそうなものではない。おれはそのことをしばしば忘れて、自己の同一性のためとか、文章力の向上のためとか立派な口実を持ち出すのだが、そうしたいつわりの理由のもとでの習慣は長続きしない。日記を毎日のように書いていた時期というのは、ただ単にそれを書くことが、そして、折に触れてそれを読み返すことが楽しかったからで、それ以上のことを背負わせてはいなかった。

おれは以前の日記を読み返し、かつての自分が書いたらしい文章から、ときに思いもよらぬ感銘を受けることがある。そうした感動は、日記を書いているものしか味わえないもので、おれはそのために日記を書いている。そして、最近はそうした記録を残せていないということに、寂しさを感じる。そもそもの日記を残せていないために、おれは後からそれを読み返すということの愉悦を感じることができないのである。

おれが日記を書くようになったのは、一番長く見積もって高校一年生だった頃なのだが、ひとたびそのことの楽しみを覚えてしまったら、それなしにはいられないのである。事実、そのときのノートは何度か断絶した期間を挟みながらも高校卒業まで続いており、大学生である今も、媒体を変えて日記を書く習慣はゆるやかにつながっている。

こうして日記が続いているのは、記憶のためとか文章力の向上のためとか、そういった理由ではなく、書かずにいられないからである。書かずにいられないのは、それがもたらす楽しみが、他に変えがたいものであるからだ。だから、おれは度々その習慣を途切れさせながらも、必ずそこに戻ってくるのである。

ここ最近、なぜおれは日記を書いているのかということを考えてきたが、その理由とは、つまるところ、それが他に代えがたい楽しみをおれに提供してくれるから、ということになる。それ以外の理由というのはどれも後付けのものであって、無理矢理にその習慣を続けさせるための口実にすぎない。しかし、そのような口実がなくとも、おれは日記を書き続けることができるのである。

たとえおれの生きる日々が、日記を書けないような均質なものであったとしても、そのことには変わりない。おれはそのことを書き記し、それを後から読んで、そうした日々が自分のものであったのを薄々思い出したような気になったりなんかして、そこに人生の慰みを、ささやかな楽しみを見出すのである。

 

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