白昼夢中遊行症

このおれには、会いたい人がいるんだろうか。

——いない。

悲しいかな、おれには「抱きしめたい家族」も「じっくり語り合いたい友人」も「一緒にお出かけしたい恋人」も「愛を伝えたい憧れの人」もいないのだ。幸い、おれの家族は存命だから、存在していないというわけではないが、彼ないし彼女らを抱きしめたいとは思わない。友人、恋人、憧れの人、これらについては存在すらしていない。

現在のおれには友人はいない、と思う。どういう関係性の人間を友人と呼ぶのか分からないが、少なくとも、いま現在友人といえる間柄の人物というのは思い当たらない。では、過去にはそういう人物がいたのだろうか。いないわけではない。しかしそうした人間にいま会いたいか、もしくは近いうちに会いたいか、遠い将来でもいい、会いたいと思うか、と問われても、はい、と答えることはないだろう。逡巡ののち、いいえ、と答えるだろう。即答しないのは、再会を強く拒絶することの相手への後ろめたさのようなものがあるというだけで、会いたいという気持ちが少しでもあるというわけではない。

そもそも、過去に存在していたかもしれない友達と呼べそうな人物、というのも少ない。未就学児だった頃はまったく覚えていない。小学生だった頃、おれの地元は子供が少なかった。小学校はひと学年1クラスで、20人ほどだった。1、2人の人の出入りはあったものの、まったく同じ顔ぶれで6年間過ごしたが、そのメンバー全員と友達と呼べるような関係を築くことができていただろうか。分からない。

おれは何にも考えていない子供だったので、そのまま公立の中学に進学した。他の顔ぶれもほとんどそのまま上がってきた。小学校よりも中学校の数が少ない地域だったので、中学に上がると、自分の学年には40人のクラスが4つできあがった。クラス替えを経験したのは中学生の頃だけだった。3年間の生活で、どういう交流があったのかはほとんど覚えていない。決まったメンバーで遊ぶような時期もあったけれど、いまだに連絡を取り合うような仲ではなかったし、そもそも高校に上がったときにすっかり交流は途絶えてしまった。

高校はどうだったか。自分は何にも考えずに文系のクラスを受験して、合格した。42人のクラスに配属された。文系のクラスはひとつだけだったので、3年間おんなじクラスで過ごすことになった。ここについては断言できるのだが、おれはこの3年間で、このクラスにひとりも友達を作らなかったし、できなかった。この興味深い経験があるから、友達なんてなんだかんだでできるもんなんだぜ、なんて感じに高校生活における交友関係像を描いている小説は受け付けない。人とのかかわりなしに物語を展開させるのは困難だから仕方ないが、ぼっちとかいう設定を与えられているラノベやらなんやらの登場人物に、ちっとも共感できない。そいつらにも、なんだかんだで一定の交友関係があるからだ。おれは正真正銘、高校生活の3年間を一人で過ごした。この時期、声帯を震わすのは授業で問いに答えるように教員に指名されたときか、日直で号令を掛けるときくらいだった。そんなんで3年間過ごしてきたんで、当然、この時期をともに同じ教室で過ごした人たちに会いたいと思うことはない。いまだに(礼儀としてだろうが)同窓会みたいなのをやるときには声を掛けられるが、こちらも毎回礼を尽くして断っている。

そして大学生だが、この時期はといえば、なんらかの集団へ所属していたとき、その集団への反発心を通していくらかの友人(と呼べそうなもの)ができた。集団、具体的には部活動とアルバイトだ。どちらでも、そこでの不満を言い合うような関係性の人との繋がりができた。しかし、そこでガス抜きをして、なんだかんだでその集団に帰属し続けるというのではなく、後腐れなくその集団を去ることができるように、という形での繋がりだったから、すでに目的が達成されたいま、おれたちをつなぐ鎹はない。

とはいえ、まったく関係が断たれてしまったわけでもない。ある相手がおれの家に残していった、未開封の酒が、そいつをおれの心につなぎ止めている。おれは誰かが「次来たときに一緒に飲もう」とおれの家に置いていった酒を勝手に飲んでしまえるような人間ではないので、こいつをどうにかするために、いずれ声を掛けなければならないと思っている。おれは彼との関係性を惜しんでその酒を残しているのだろうか。そうではないと思っている。おれはすっかり貸し借りを精算したい人間なのだ。というか、貸しについてはどうでもいいが、借りはそのままにはしておきたくない。第一すっきりしないし、それに、それを理由に突然懐に入られたら、逃げることができないではないか。しかし、何にせよ今は時期が悪い。これをきちんと精算するためには、「次来たときに一緒に飲もう」という目的をまっとうさせてやるのが一番礼に適っていると思うから、もってきたやつの家に送り返してやることはおれにはできない。かといって、今この時勢で濃厚接触に該当するようなこともできない。しかし、いずれはきちんと精算して、おれはまた一人になるだろう。

恋人。こいつは簡単な話だ。おれと過去現在未来においてそうした関係性を取り結ぶような人間はいない。未来については分からない。が、少なくとも、いまのおれの意識の連続性が失われたり、そこまでのことがなくとも、おれの価値観を大きく揺るがすような事件が起こらないかぎり、そのような関係は築かれないであろう。

憧れの人。これも、「愛を伝えたい」という修飾語(修飾節?)における「愛」が友愛や性愛を指すのなら、それに該当する人がいないということは明らかだと思う。神の愛を語れるほどおれは徳を積んでいないし、慈愛を持ち出すのはここではちょっとずれるような気がする。家族愛もなんだかピンとこない。おれは自分を愛しはしても、おれ自身に憧れるなんてのはおかしな話だから、自己愛も違うだろう。尊敬もまた愛の形かもしれないが、これまたその対象は見当たらないし、そうした人物がいたとしても、おれはそもそも愛を伝えるなんてことはしない人間だ。元も子もないが、おれは嘘にまみれた人間で、愛を伝えた時点でそれは嘘になってしまう。愛を口にした時点で、おれの中からは愛がなくなってしまうのである。だからおれは誰かを、そして何かをほんとうに愛するようなとき、それを愛し続けたいと思うなら、おれはおれの愛を口外してはならない、おれは愛を伝えようと思ってはならない、と思っている。だから、おれには「愛を伝えたい憧れの人」もいない。

そういえば、「抱きしめたい家族」についての記述が薄いな。しかし、おれは特に家族に会いたいとも思わないのである。それはいつでも会えると思っているからではないか、といわれるかもしれない。しかし、そうはいっても、「会いたい人」というとき、家族だからといって特別視する理由も特にはないのではないか。その人が、「家族だから」会いたいとか、「友達だから」会いたいとか、「恋人だから」会いたいとか、「憧れの人だから」会いたい、なんてのは不誠実だ。おれには誰かに会いたいという気持ちがない。それだけで十分じゃないか。

 

おれには会いたい人がいないらしい。

今週のお題「会いたい人」