白昼夢中遊行症

断想

今週のお題「部活」

なぜ私がこの世界に生きづらさを感じているのかといえば、この世界の如何なる人間とも、少なくとも私の周囲にいる如何なる人間とも、私の生きるこの世の地獄というものを共有できずにいるからだ。彼らはみな、現状に不満をいだいているといいながらも、その不満というのが、現世でどうにでも解決しうる悩みであるのだ。これがどうにも私には理解できずにいる。彼女ができないという悩みをいだいたとして、それは生きづらさにはなり得ない。少なくとも、本質的な生きづらさとは言えないではないか。自らの子孫を残すことができないだと! 大いに結構! それはめでたいことではないか。浅ましい生理の欲求にあらがい、この忌まわしき生の主体の発生を一つ抑制することができたということだ。これを祝福せずに、どうしろというのだ。私にはわからない。現世に何らかの救いを求めて生きようともがく者どもの、その心の内が解せぬ。この現世で何事をもって私は幸せであるなどとのたまうか! 幸福は、現世にも来世にもない。我らがどこにいたろうとも、どこかへ到ることができるという時点で幸福には至りえない。幸福は、どこかでなし得るものではないし、いつか実現されるようなものでもない。幸福とは何だ? 幸福とは、それを一切求めえぬものであることだ。私は、私である時点で幸福に到ることはないし、たとえ今すぐ死んだとしても、幸福に到達するわけではない。私が、今、ここで、死ぬ。これ自体が私の幸福を願ってのことであるということが幸福から私を遠ざける。そもそも、私の幸福とは何だ。幸福であることは、私と称する一切が存在しないことだ。つまり、「私の」幸福などというのを求めることじたい馬鹿げている。私は何でこんな詮無い問いを続けているのか。答えは最初からわかっていたではないか。もうどうにもならないのだ。もう、なんて言えるような時間軸上に存在している時点でまちがっているのだ。生きることに意味はないし、死ぬことにも意味はない。どうして生きているのかといえば、それが一番苦痛がないような気がするからだ。実際、今すぐ死んでしまった方がいいのだろうが、「私」は、今のこの状態を維持するのがいちばん楽だと思っているのだ。だから生きている。そして、できることなら何か逆らいがたい大きな力によってこの生命を奪ってもらえないものかと考えている。要するに、神の救済を希求している。そう考えれば、わたしは宗教者と何ら変わりないのかもしれない。私は私にはどうしようもないような力があるということを信じ、それによって私というものがなきものにされることを願っているのだ。まったく馬鹿げている。私はかくも無駄な言葉を弄して、人がかつて、数千年も前に到った結論を出そうというのだ。もうこんなことはやめにしよう。もう、口を閉ざしておこう。思考も哲学も止めだ。そもそも、この世に何も期待しないというなら、なぜ、こんな文章を書いた! これこそ、自己に対する偽りじゃないのか。口を閉ざして、よく考えろ。いや、考えるな。ただ黙っていろ。すべてを止めよ。いや、やめるということもするな。何もかも、まったき無に帰せ。