白昼夢中遊行症

断想

こうして、何か書こうとした途端に、書く内容をことごとく失念してしまう。いつも夢を見るのに、現実ではその想像力の一割も使えない。以前とくらべても私は文章を書く力を失ってしまったと感じる。原因は何か? 日記を書かなくなったからか、それとも人間と関わらなくなったからか。私はバイトをやめて以来、ほんの断片的な考えすらほとんど書けなくなってしまった。私がものを書くときの原動力となっていたものが、怒りだとか不安だとか、そういった負の感情ばかりであったのだと気づかされる。そして、そうした負の感情は、少なくとも私の場合、人との交流の中で生まれる。とくに他人と飲みに行ったときなど、私はいつも激情に駆られて、でたらめに、しかし非常にのびのびと文章を書くことができた。今では一言書くのにさえ言葉が詰まる。酒を飲んでも特に筆が軽くならない。まあ、だからといって何か問題があるわけでもない。しかし、ここのところノートをめくっても、自分の言葉が見つからないのが少し寂しくなったのだ。ここ最近のノートには、暇つぶしの計算あとと、難しい本を理解するためのメモ書きしかない。昨日の私は、一月前は、と思い返してノートをめくってみても、私の生き生きとした心情が一つも残されていない。以前まともに日記を書いたのはいつのことだろうか。一冊、二冊とノートを遡ったところで、それは見つからなかった。私はいつから私の心情を私にさえ隠すようになったのだろうか。私はいつからこんなにも無感動になってしまったのか。私の心はつねに平静で、私の生活は一定だ。一定のノルマを消化する。これの繰り返しだ。いや、まてよ、私がそれを望んだのだ。私は、感情の起伏がなかなかに激しい方で、そのせいで色々と苦労をしてきたのだ。それを抑えるために、私はまず生活を平坦に落とし込むことによって、心の平静を得たのだ。おかげで続けるべきことを続けることができている。ちゃんと夜に眠り、朝に起きることができている。私はこれを望んでいたのだ。しかし、一方で、私は私の感情の起伏を嫌っているわけではなかった。私はその乱高下を気に入ってすらいた。一方のためには他方を諦めなければならないというのは世の定めか。私は少なくとも当面のあいだはこの凡庸な日々を手放すわけにはいかない。そうすると私はしばらくの間は日記に残らない日々を過ごさなければならないということだ。私は日記をつけないと思い出を覚えておくことができない。べつに記憶に難があるわけではないと思うが、思い出に関しては異様にその力が弱くて、私の思い出には、楽しいこと、うれしかったこと、哀しかったこと、腹立たしいこと、などなど、そういったものが不足している。かろうじて、シンプルに出来事をいくらか覚えているくらいだ。こうしたとき、いつも思うのは、私はほんとうに、一年前の私と同一なのだろうか、高校生の時、中学生の時の私と連続した今の私というのが、ほんとうに存在しているのか、ということだ。わたしはある時点で宇宙人か何かに作られたコピー人間とすり替わっていたとしても驚かない。人生のある一部がすっぽり欠けてしまったとしても、今の私にはとくに何ら影響しないという実感がある。たとえ昨日までの私の記憶がなくとも、私は問題なく私として生きていくことができる。このことに関してはほとんど確信めいてそうだと思っている。私には私を私であらしめた原体験のようなものが欠けている。私はただ、今ここに存在しているだけであって、過去にも未来にも今この私と連続した私が存在しているなどということが考えられない。日記はいわば、私の同一性であった。それを書いている限り、私は連続した私を意識することができていたのだが、私はまた、どこかある時点での私から切り離されてしまった。

 

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このときなんかは、ほんとうに気持ちよく書くことができた。バイト先の人間と沖縄料理を出す居酒屋に行って、なんだか愉快な気持ちになって一息に書いたのを覚えている。そういう「思い出」がある。しかし、それ以来なにか思い出のある記録がない。

食うに困らず、寝る場所があって、あとは余計なことを考えなくてすむ程度のわずかな暇つぶしに事足りた生活……。