白昼夢中遊行症

誰かの日記

自分というものを理解するという目的もあって、日記とかブログとか書いているのだが、一向にわからない。自分が思うこと、感じたこと、書きたいこと、自分の生活とか思想とか、そういうものを書きたいという思いはあるのだが、そういうことを書こうと思うと、何も言葉が出なくなる。ひどい場合、食べたものですら、素直に言うことができない。そうして言葉が詰まるとき、私の中には言いたいことがある、ようにも思われない。私の中には何もないのである。私は何も思わないし、感じない。書きたい文章・文体もなく、生活や思想もない。さらに言えば、そうしたものの欠如すらもない。つまり、何か思ったことを書こうとして言葉に詰まるとき、その思いが無いだけでなく、思うことが欠けている。自分でも今の私が何を言っているのか理解しがたいけれど、それは私が私を理解できていないからなのか、それとも、たんに私がまったく意味不明なことを言っているからなのか、わからない。理解できない私は、この文章を書いている私と同一の私なのだろうか。いや、そりゃそうだろう。私がこの文章を書いていて、その文章の中で「理解できない」と書いているのだから。本当にそうなのだろうか。

私は「私」という言葉が嫌いだ。こんなものがあるから、私は何かをし続けなければならないのだ。もしも私が存在しなければ、私が私である必要はなかったし、こうも「私とは何か」と問い続ける必要もなかったのだ。私は私にとっての私ではなく、誰かにとっての誰かでありたかった。ところが、「私」なんて言葉が存在しているから、私は一人称で話さなければならない。

私は、いつの間にか「自分というものを理解するという目的」を放棄するようなことを書き始めていることに気が付く。しかし、そのようなことを書き始めるのが私なのだろうか。私には、こうしたことを私が書いていると思われない。いや、ここで「思われない」のは本当は誰なのだろうか。わからない。ここらでいったん切り上げないとキリがないので、やめとこう。

なぜまたこんなことを書き始めたのかというと、ひさびさに他人のブログを読んで、面白かったからだ。他人のブログを読むのは面白い。ここでいうブログは、集合的無意識みたいなテンプレ1に冒さたものを除くが、とにかく、他人の書いた文章を読むというのは面白いものだ。どんなものであれ2、その人の為人がにじみ出ている。なにかキャラクター性を押し出して書かれたものは、その点ではつまらないけれど、その裏に見え隠れするその人自身を捉えることができれば面白くなる。なので、だいたいの文章は面白い。面白いと思いながら、自分の書くものには、こうしたものが欠けているよな、と思った。それとも、自分だから気づかないだけで、これを読んでいる誰かは、ここに私を認めているのかもしれないけれど。そうだとしたら、わたしとしてはそれは少し羨ましいことである。最初に言ったように、日記とかブログとか書いている理由のひとつは、自分探しのためだからだ。文章を書くのは旅に出るよりは自分探しの手段として真っ当だと思ったのだが、なかなかうまくいかないものだ。

ところで、自分の長所とか短所とかって、無いといけないものなんだろうか。やりたいことって本当に必要なのだろうか。世間はそれを強制しているように思えて、窮屈でならない。正直なところ、私にはやりたいことがない。だからといって、何もしないわけでもない。むしろ、そのときやっていることが、そのときの私がやりたいことである。それではだめだと、世間はいう。一体なぜなんだろうか。好き嫌いはだめだと言いながら、実際に求められるのは好き嫌いを臆面もなく主張する人間だってさ。なんじゃそりゃ。まったく意味わかんね。納得いかないことは多いが、無力な私はそれを受け入れるしかない。けれど、受け入れられないことは受け入れなくてよい、なんてことも聞く。そんな無責任な言い方って無いよな。それを真に受けて受け入れなかった人間は、世間に受け入れられないのだから。結局のところ、言葉を濁すしか無いのよな。そう考えると、政治家先生は生き方のプロだね。みんな是非とも参考にしよう。ああいう風に、なにごとも留保して、のらくら生きるのが賢いやり方だ。実際、あやつらはそれでお金もらって食っていっているわけだから。いや、何言ってんだろ、おれ。また何かに喋らされてしまった。これは「私」か? それとも……


  1. 極端な例でいえば「いかがでしたか」ブログと呼ばれるものだったり、まあ、その辺りのやつのこと。
  2. 「どんな」と言いながら、前述のテンプレに冒されたものは埒外に置いているけれど、そうしたものは誰かが書いたものとは言えない部分が多いので、理屈は通っているはず。(しらんけど)

たやすい仕事

五日の休み越しの出勤。仕事先へ向かう道のりは、今年一番気が重かった。もし、あと一日休みが長かったら、わたしは二度と働いていなかったかもしれない。なんて思うほど、それくらい気が重かった。

気が重いといっても、それは気のせいだ。仕事場に着いたらこちらのものだ。始業から終業まで、やることをやっていれば過ぎる。そうして難なく過ぎるものだ。気を重くするものがあるとすれば、それは仕事ではない。そのほかにいろいろと抱えている心配事によるものだ。しかしその心配事とても、やることをやっていれば難なく過ぎるものではないのか?

問題があるとするなら、普段の仕事ほど、やるべきこと、というのがはっきりしていないということか。とはいっても、はっきりしていないのはそれに取り組む時間が短いからで、もしも仕事のように、一日八時間、すべての集中力を以てそれに向かえば、何日か繰り返しているうちに、やるべきことははっきりするようにも思われる。八時間でなくてもよい。少しでも、すべての集中力をそれに注ぎ込む時間を作るべきだ。それを習慣とするべきだ。いずれ問題が解決するときまでは。問題はわたしが自分で考えないといけない。問題解決の方法について、いくら学んだとても、問題は解決しないと解決しない。ホームランを打つためには、ホームランを打てばよいみたいに。

そんなことを考えながら、今のわたしは次の出勤に備えて眠ることを考えている。それももっともなことだ。仕事だって必要だ。充分な眠りは心を軽くする。明日はもう少し、軽い気持ちで仕事場に向かいたい。そうして余力を残したまま、そのほかのやるべきことにも手をつけたい。

休みのおわり

今日も何もできずに過ぎ、休みは終わった。考えないといけないこと、やらないといけないことは多い。やりたいことも、いろいろとあるけれど、それら全てのバランスを取るのは簡単ではない。

簡単ではないことを、みんなどうやっているんだろうか。何かを選び、何かを諦めるのか? それを考えるのだって時間がかかる。何をするにも、時間が必要だ。その何かをすることが幸福への道であるなら、幸福のためには時間が必要だ。時間を得るには、この世の中では金が要る。しかし金を得るには、この世の中では時間を始めとして、いろいろなものを投げうたねばならない。場合によっては正気とか、自らの潔白とか。そのため、幸福に至るために幸福から遠ざかることも必要になる。そのようにしてわたしは、最終的にどちらへ行き着くのだろうか。

光と陰を股にかけて 泣き笑いを行ったりきたり
——amazarashi「光、再考」

油断してはならない

気がつけば2023年になり、1日が過ぎ2日が過ぎて、年末年始の休業期間も残すところあと1日となってしまった。

その間わたしがしていたことといえば、食って寝て、YoutubeやPrimeVideoでコントやら漫才やらを見て、続ける気のないソシャゲを始めてみたり、思いつきで幾何学模様を書いてみたりで、なんの生産性もなく、いまの私がするべきことは、ひとつもできていない。

何かできていないことがあるからといって、焦ってはいけないけれど、開き直ってもいけない。わたしはわたしの問題をひとつずつ解消していき、少しでもましな生活を目指すのだ。そのために、わたしは寸分たりとも油断してはならない。

わたしは常に、わたしにそう言い聞かせなければならない。なぜなら、わたしはすぐに、忘れてしまうからだ。こうして自分を戒めることさえ、わたしは忘れてしまう。そのようなとき、なるべく早くに思い出せるよう、覚えているうちは何度も繰り返すのだ。

わたしはわたしのために、わたしをよりましな人間に仕立て上げねばならず、そのために、わたしはわたしの時間を、わたしのために使わねばならず、わたしはわたしの易きに流れる性向を誰よりも知っているので、わたしはわたしの舵をとり、それを離してはならない。

わたしの2022年

柄にもなく、年末らしいことをしようと思い、今年ここに書いた日記をすべて読み返した。本当は、すべてにコメントをつけたかったのだが、もう今年が終わりそうなので、次第にコメントは短く、10月の半ばからはひとこと抜き書きするのみになってしまった。

ともあれ、一応全部見返すことはできたし、まあいいか。という感じ。追ってコメント追記するかもしれないし、しないかもしれない。でもまあ、今日はおしまいだ。おやすみ。

1月

記録なし。

2月

2022-02-11:2022年。日記つけはじめ

今年は2月に入るまで日記を書かなかった。公開していない記録とか残っていないかとちょっと探してみたものの、見つからなかったので本当に今年の日記付け始めがこれということになると思う。

朝起きて牛乳を2杯飲み、仕事先へ向かう。8時間前後の正規業務と、3時間程度の残業。家に帰り、食事をして風呂に入ったら、もう眠る時間だ。 そうして一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月、一年が過ぎ、十年、二十年と過ぎていき、人生が過ぎていく。 こうしてみると、人生なんて大したことない。苦しみも悲しみもすぐに過ぎる。人生とともに去っていく。去っていくものを見送る間も無く、手を振るまでもなく、遠くへ行ってしまう。 一切合切去っていく。過ぎし日の別れも、いずれ来る別れも、大したことではない。 そんなふうに見える。

短いので全文持ってきてしまった。私には特にすることがなかったので、毎日残業して一日十時間とか十一時間とか働いていた。出勤するのが九時半くらいで、その一時間ほど前には出発する。働く時間は十一時間だが、途中で休憩もあるので、終業は廿一時とか廿二時とかで、そこから戻るともう、特に何かしようと思うような時間ではなくなっているので眠る。そんな日が続いていた。別にそこに不満はない。給料は支払われているし、身体も健康だ。このようにして人生のすべてが過ぎてしまうのなら、それは私の望む通りのものなのではないだろうか。何かを心に刻むことも、想い出に浸ることもなく、日々が難なく過ぎてゆくのなら、日記だって書く必要もない。私は日記を書くのが苦手だ。日記というか、私のことを書くのが苦手だ。私のことをというか、なんのことであれ書くのが苦手だ。苦手なことをしなくていいのなら、それに越したことはない。

3月

2022-03-18:断想

夜道、歩きながら書いて、そのまま投稿したような気がする記録。この少し前くらいから週に六日働く習慣がついたのだったか、結構くたびれていたようだ。出勤したくないと思うことはなかったし、今もないのだが、とにかく体がくたびれ切っていた。ほんとにくたびれていたのだと思う。それしかいうことがないくらい、何もない記録だ。

2022-03-21:ここ最近買ったものなど

金はいくらあっても困らない。まして、大きめの買い物をして懐が寂しくなっているいま、その誘惑は抗いがたい。そういうわけで、まだ休めそうにない。 (断想)

ひとつ前の記録で「大きめの買い物」をしたと言っていて、PCを新調したことについてはこれでもう記録済みということにしていたのだが、何があってか、何やらわざわざ長々と書いていた。これも「今週のお題」とかいうやつの仕業だろうか。だがまあ、この前PCの不調に堪えかねてOSを入れなおしたときに、最初組んだときにどういうことしてたっけ、と見返す機会があったので、まったくの無駄ではなかったと思う。見返したところで、特に役には立たなかったけれど。

ちなみに、今では「Mistel BAROCCO MD600v3 RGB (Silent Red)」はまったく使っておらず、箱の中で眠りっぱなしだ。左右分離して使えるというところまでは良かったが、静音赤軸はそこまで静音ではなかったし、キーを押した感触もあまり好みではなかったし、キートップが小さいため指先の動きが大雑把な私は度々キーとキーの谷間に指を突っ込むことになったし、結局のところHHKがええやん、というところに落ち着いた。

あと、Keyhacでいろいろ設定をいじって、スペースキーをシフトにしたり、日本語入力ソフトにSSK(だったっけ?)を導入したりもしていたが、入力周りも最終的にはあまり弄り回さない方向に落ち着き、文字入力もMicrosoftIMEを使っている。こだわりなんてむなしいものだ。

4月

2022-04-22:この文章はどこからが真実で、どこまでが嘘なのだろうか

これは午前から昼にかけての時間帯、コメダ珈琲店スマホHHKの組み合わせで書いた覚えがある。なぜ覚えているのかといえば、これを書いたことで嫌な思いをしたからだ。「嫌な思いをした」というのは、この文章によって誰かになにか言われたとか、そういうことではない。だいいち、これを読んだ人なんて、わたし以外いないだろうから。

そうではなくて、この文章を書くことで私は、私を見る私に手酷く攻撃を受け、それがある種トラウマのようになったからである。

私は頭が悪いわりに考え過ぎるきらいがある。この文章では「考えすぎ」と最初の方に言っていて、それでもう結論は出ているのに、余計なことを考えるから、最後には無限ループに陥るのだ。

以前のようにのびのびと書けなくなったことが寂しくなり、それを乗り越えるために書こうとしたのだろうけど、結果としてますます書けなくなってしまった。これ以降、同じような独相撲を取る習慣がついたような気がしている。そのたびに地を舐めていることは言うまでもない。

話の種を育てず、食べてしまうのがおれではない。決まったテーマについて書けず、そうしたことができる人を羨んでいるのも、おれではない。言葉を思考ではなく行動だと考えているのも、おれではない。ただ、そのように書いているのがおれだ。いや、それもおれではない。おれは真実ではない。おれは何なのだ? いったい、おれはどこに存在しているのだ? おれは正直でいたい。おれは誠実でいたい。おれは自分で書いたことに責任を持ちたい。おれはおれの嘘を暴きたい。という嘘を暴くのはおれでなければならない。という嘘を暴くのはおれでなければならない。という嘘を暴くのはおれでなければならない。……

2022-04-22:筆を折る

万年筆を折ってしまった記録。その後、ペンクリニックで直してもらうのだが、結局のところ手書きで文字を書くことがないので、たまにインクを入れては、カラカラに乾かして、というのを繰り返している。手で書くのも好きなのだが、時間がかかるし、いまの仮住まいでは荷物も増える。

2022-04-24:断想

家にいればお金を使うこともそんなにないのだが、外をほっつき歩いているせいで、コーヒー代とか、カレー代とか、書店で見ていて読みたくなってしまった本代とか、雑貨屋で見ていて欲しくなってしまった諸々代とか何やかんやと、お金を使いすぎてしまった。 今月は仕事が少ない。少ないということは、儲からないということだ。にもかかわらず、お金を使いすぎた。先月は毎日12時間近く働き、ときに休日出勤もした。 それで得た金が、プラスマイナスゼロ、くらいになってしまったような気がする。

私の今の職場では、社会保険加入義務逃れのために3か月おきに出勤制限がかかる。これが厄介で、これのために、私はいまの職場をこのまま続けていくわけにもいかないようだ。とはいえ、ほかにあてがあるわけでもないのだけれど。

2022-04-24:これは日記ではない

「純日記」というブログジャンルが提唱されたのに対しての、わたしの最初の反応は、本来日記であるものを呼ぶのに、わざわざ「純」なんて語を付け足さなくてはならないということに対する反発だった。しかし、それをうまい感じに言葉にしてみようと試みて、結局のところ迷子になってしまったのが、これである。単なる日記を「純日記」と呼ぶのは、単なるローソンを「不自然ローソン」と呼ぶような、無用な冗長さを強制されるような感じがして嫌だったのだが、そのときは結局何が言いたいのか分からず、ごちゃごちゃっとしてしまった。自分の思いについてあまり考えることなしに書いたのがまずかったのだろうか。

2022-04-26:今日はとても暑かった。

ぐちゃぐちゃっとしたものを書いてしまったあとなので、そうしたものを書いてしまったことの反省からか、努めて日記を書こうとしていた。しかし、ここでも途中から、自分を見る自分に主導権を明け渡してしまう。

ところで、自分はいま、日記を書くことができているのだろうか。

そんなものは、わざわざ問うまでもないし、問うたところで日記は終わるというのに、そう書くまいと堪えることができないために、私は日記を書くことができないのだ。

とはいえ、日記でなくなった部分で、書くことについての自分の思いの裾を捕まえることはできたのか、改めて読んで、まあそれはあるよな、と思う部分もある。

自分の中の世界は、それを何らかの形で外に出して、自分の外の、自分ではないものとして見、それを再び自分の中に取り込むことによって、より豊かになると考えている。

もちろん、自分の世界を豊かにする方法はそれだけではないだろうけど、自分が日記を書くことの理由のひとつは、とにかく豊かさが欲しいというのがあって、私は数ある方法のなかでこれを選んだ、というのがある。いや、もともとそんなことを考えていたかはわからないが、いつかどこかの時点から、そうした理由が含まれるようになったように思う。

2022-04-26:今日はなんだか寒い。

午前中、私は家電量販店前のベンチに座って苛々していた。小学校低学年くらいの男の子が水筒ぶら下げて、行ったり来たりしていた。いろいろなことが不満だったが、そのような、不満を抱いている自分が何より気に食わなかった。

  • 体調が悪いから偉い、なんてことはない。
  • 疲れているから偉い、なんてことはない。
  • 頑張ったから偉い、なんてことはない。
  • 何かに怒っているから偉い、なんてことはない。
  • 国のために命をかけているから偉い、なんてことはない。
  • 虐げられているから偉い、なんてことはない。
  • 生きているから偉い、なんてことはない。
  • だからといって、死ねば偉くなる、なんてこともない。

2022-04-26:断想

したいことがある、というのは大変なことだ。やるべきことだけでなく、考えるべきことが多すぎる。いままでろくに考えることなく生きていた自分にとって、こんなに大変なことはない。じっさい大変だから、なるべく何かをしたいという思いを抱かずに生きてきたのだ。

このとき、いったい何をしたいと思っていたのか、覚えていない。特にしたいことがあったわけではなく、何気なくこんなことを書いたのかもしれないけれど、現在のわたしはいろいろとやりたいことがあるような、ないような……考えるべきことは多い。しかし、望みを持たずに生きる、というのも簡単ではない。簡単ではないので、取ってつけたようなものであっても、なんらかの野望を持っているのがよい。

2022-04-27:今日も寒い

  • 帰る、というのだろうか。そこは、帰るべき場所なのだろうか。
  • やはり、そこには自分の居るべき場所ではないような気がする。
  • 自分のいるべき場所は、そこにはないような気がする。

いつからかわからないが、どうも「帰る」という言葉がしっくりこないことに気が付いた。しかし、代わりになんて言えばいいのかわからないので、仕方なくその言葉を使い続けているのに過ぎない。そうした言葉は、気づいていないだけでほかにもいろいろありそうだと思う。

2022-04-28:天気予報は当てにならない

命がなければ金は何の役にも立たない。地獄の沙汰も金次第、とは言うが、そんな言葉は信じない。金を持っている悪人が、金を持っているがゆえに地獄で優遇されるなんてことを認めるわけにはいかない。死んでからも格差がある、なんてことを認めるわけにはいかない。そんな恐ろしい世界を、認めるわけにはいかない。地獄の沙汰も金次第、なんて言葉は嘘だ。金持ちの悪人はこんなことを言うおれを笑うか。しかし、少しでも良心が残っているのなら、せめてそれを信じさせてくれ。

大体このくらいの時期に、季節外れのクルーズ船が事故を起こして人命がなくなった。季節外れの、安い旅行プランを選ぶやつが悪い、と思いながらも、経済の格差とか、貧乏人も金持ちのまねごとをしないと満たされないような世の中を作ったものの存在を考えると、自業自得とも言えねえよな、とかそんなことを思っていたのだろうか。

2022-04-29:断想

  • ゴールデンウィークには仕事に呼ばれなさそうだということが分かったので、その休みの間に、iMacを処分することにした。

iMacを処分した具体的な日取りは忘れたが、ここに記録があるということは、これくらいの時期だったのだろう。15万ほどしたiMacも、9年たてば2000円で買いたたかれることになる。人間の価値も、そのようなもので、しかも暴落ぶりはもっとひどいものだろうな。なんて、口から出まかせ。

5月

2022-05-03:断想

  • すべてを曝け出すことができる……そんなことが出来る相手は神だけだ。
  • 神の前では、何かを取り繕う必要は何もない。
    • それはなんだか、心休まることのような気がする。

心の平穏のためには、人は各々の中に自分の「神」なる存在を作っておくべきだ。それは自分の中にとどめておかないと、いろいろややこしいことになるので、その辺の扱いには気を付けないといけないが、とにかく、そうした存在は眠れぬ夜の不満のよき捌け口になる。こんなこと、今更言わなくても多くの人がわかっていて実践しているのかもしれないが。

2022-05-08:日常が回復しているらしい

私の住む地方は、毎日のように修学旅行生がどこからともなく湧いて出てくるところなので、外を歩くとどうしても「非日常」に遭遇してしまう。なので、「日常が回復している」と言われてもしっくりこない。

そもそも、日常は損なわれたのか? 日常の何が損なわれるのか? 損なわれる何かがあったとして、それは回復するものなのか? 「日常が回復している」という言葉には、よく分からないことが多く含まれているせいで、聞くたびにもやもやした気持ちになる。こうした言葉を使う人は、日常というものをよく知っているのだろう。しかし、おれにはわからない。この時疫によって何かが損なわれた、と感じたことはなかった。おれの中からは、すでに日常のような何もかもが、すでに損なわれてしまっていたからなのかもしれない。しかし、いつから?

2022-05-11:

「存在することが面倒だ」というのは「死にたい」というのとは違う。むしろ、死んでしまうとそこから何日かは、葬式とか遺品整理とかでより濃くほかの人の中に存在しなければ何らなくなるので、余計に面倒だ。存在が面倒なときに、任意で存在を休むことができればいいのにね。

2022-05-12:なにも出来ない

この辺りは毎日残業だったが、残業のし過ぎで年度が替わるまで残業ができなくなった。なので、今は自由な時間は比較的多くなっている。だからといって、何かができるわけでもない。というのも、時間があるからといって、何かすることがあるわけではないからだ。

2022-05-22:書店にて

なんか、変わった体験をすることになったので、記録しておかざるをえなかった。書店であっても書店でなくても、いまどき知らん人に話しかけられるなんてこと、そうそうないだろうが、珍しい人がいたもんだ。フィッツジェラルドの短編集は、その後自分でも読んでみたが、まあ、見立てには間違いなかったと思う。あくまでこれは個人の感想で、好みに合ったのか、わからないが。また会うこともないだろう。本当に、夢のような出来事だった。この日記にふさわしく。

2022-05-24:独白

なんか、ここに日記を書き始めたころの文体に寄せようとしてみたけど、いまだに違和感あるよな。時間とともに、私から去って行ってしまったものの一つだ。あの頃の文体はもう二度と再現できる気がしない。それに引き換え、いまの自分の書くものは、どれもいつの自分でも書けるもののような気がするので、その点ではあんまり価値がないように思う。それでも、ほかに何らかの形で価値を認めているから、いまだに思い出したように書いたりするのだが。

6月

2022-06-06:面影のひと

しかしそれから5年の月日が経ったのだ。もし彼が彼だとして、だからどうというのか。いまとなってはもう、なんの関係もない。なんら関係を築く由もない。

ただおれは、彼と、彼がおれの人生の中にあったひと頃とを懐かしみ、そしてひっそりと彼の幸せを祈るのみである。

私は、かつて私の近くに存在していて、今はいないものに対して、けっこう甘い。いや、ここでの記録で言われている人は、別に特別甘い評価を与える必要もなく、元からいい奴だったのだが、喧嘩してそれっきりになっている相手に対しても、もう二度と会うことがないと確信しているうちは、いい奴だったと思い込んでしまうのが私だ。それでも、今ここで言った喧嘩してそれっきりになっている相手とまた会いたいかといわれると、会いたくはない。いつだって面影は美しい。しかし、しっかりと目を見開いて、現実を見れば醜い。

2022-06-13:断想

いろいろと、読んでない本は多い。このときの記録で挙げた本は、そのあと近いうちに読もう、と思ったものではあったが、実際に読んだのは『月と篝火』くらいだ。ちなみに、ここ最近は『シュレーバー回想録』を読みたいと思ったりするのだが、取り出すのが面倒だし、第一どこにしまってあるのかわからないし、最近本読んでねえしで、たぶん読まないと思う。

7月

記録なし。

8月

記録なし。

9月

2022-09-16:断想

問題は、たとえば、今日のような、仕事のない日。〔……〕そんな日は、自分自身と対決するのにうってつけの日、のように思えるのだが、何かにそれを引き止められる。何かが、わたしを呪いのように拘束して、動けなくするのだ。その結果、ずるずると現状を黙認せざるを得なくなる。そんなこんなで、もう何ヶ月経つのだろうか。

2022-09-16:断想

ふと、夏が終わる匂いを感じて、何かを逸してしまったという気分にとらわれた記録。

2022-09-23:断想

個人的に今年いちばんのお気に入りの記録だったりする。何を気に入っているのか、どうしてこれなのか、というのは、誰かにわかってもらう必要はない。

2022-09-23:断想

友達ってどんな色をしていて、どんな形なのか。私にとっては無色透明で、気配はあるけど、実際に見たことないので、それが友達であるという確証もなく、概念なのか実体なのかも不確かである。

2022-09-23:断想

たまにある、これ以上いうべきことは何もない記録。

2022-09-24:断想

何もかもを、いっそのこと抛棄してしまいたいが、ここでいう、「何もかも」がなんなのか、ぼんやりしているいま、なにが負担になっていて、なにを棄てればいいのかわからない。そもそもなにを背負っているのかもわからない。自分についてわからないことを、じっくりと自分のうちに還り、考えてみる余力もないくらい、くたびれている。

2022-09-24:断想

存在をさぼるというのは、こういうことです。

2022-09-25:断想

半年近くたっても「純日記」というものに納得がいっていない記録。この時には「不自然ローソン」みたいな呼び方がいやだというところにたどり着きかけているような気がする。

2022-09-25:断想

歩きながら考えられたこと以外、耳を傾ける価値はない、と、誰かが言った。それに対して、まったくだ、と、ほかの人が言った。それを読んだわたしは、本当、その通りだよな、と思いながら、そのときのわたしは長いこと歩いておらず、歩き方すら忘れていたので、しかもその上で何かを考え、話そうとしていたので、何か後ろめたい気持ちになって、それをそっと本棚に戻した。

2022-09-26:断想

めずらしく本の感想を書いている記録。

2022-09-27:断想

いちばん油断したときに限って、いちばん致命的な一撃が降りかかる。致命傷を負わないようにするためには、一瞬たりとも気を抜かないことだ。

2022-09-27:断想

何かきっかけがあったのか、なかったのか忘れたが、近くの家が全焼したことを思い出し、残した記録。といっても、それについては一言で終わっている。

そういえば、どうしてか、自転車で遠くに行く夢を見るとき、いつも誰かと一緒な気がする。その誰かいろんな顔を持っているのだが、わたしはそこに何を当てはめるべきなのだろうか。

こんなことを言っているので、なにか自転車で遠くに行く夢を見ていたようだが、いまではそれがどんなだったか、そもそもそんな夢を見たことすらも忘れてしまった。

2022-09-27:断想

これは、自分にもっと肩の力を抜いて記録を残せと言うべく書いたものだったような気がする。

2022-09-28:断想

9月の末、記録が増えたが、それと引き換え睡眠時間が減ったという記録。

2022-09-29:断想

排除アートとやらが、着々と浸透してきて、生きる場所が少なくなっていく。住みやすい街を作る人間が、街から住みやすさを排除する。わたしは排除された人間だ。わたしはここに住んではいない。わたしはどこにも住んでいない。

ここから思い出されるのは、この少し前に書店で岩波あたりから出ていた排除アートについての薄い本を立ち読みしたこと。

2022-09-30:断想

いまだにアカデミックな本を読もうと思うことがある、というのはいまだに大学時代を悔いてるのかもしれないという記録。

10月

2022-10-01:断想

ほんとは10月半ばくらいなのに、10月1日に給料が上がるのだと思い込んでいた記録。

2022-10-01:断想

わたしは、誰も真実など求めていない、ということを理解しているはずなのに、どうしてか、人と話すとき、その人が真実を欲しがっていると思い込んでしまうのだ。口に出してようやく、「間違えた」と気づく。そんな瞬間が何度もあった。

2022-10-02:断想

人には、それぞれの事情があって働くものだろう? 私には、私の事情がある。仕事が好きなわけではない。そりゃあ、かなりましな仕事だとは思う。それに、仕事が精神を支えている面も、ないとはいえない。しかし、それでも、私はそれらのために仕事をしているわけではない。それらのおかげで、いまの状況に耐えられているのは、まあ、事実なのだが、なにより、私は私の事情があって、それがために、こうも仕事、仕事なのだ。それを誤解してほしくはないし、私自身も、これらをごっちゃにしてはいけない。

自分にとっての仕事のあり方について、自分に語っている記録。

2022-10-02:断想

仰向けに寝て日記を書ける環境があるのなら、もうちょっと記録が増えたかもしれない記録。

2022-10-03:断想

ドイターのリュックサックが届いたけど、思ったほど使ってないなあ、という記録。

2022-10-04:断想

しかし、いまの私には、なにかすることが必要だ。私はほかの仕事を探すべきなのだろうか? そうだ、非正規ではなく、もっとちゃんと働けるところに行くべきだ。しかし、就職活動とかいうものに、私はうんざりしている。実際にどこかの会社に行ったわけではなく、私はイメージで語っているにすぎないが。企業の面接というのはまったく馬鹿げていると思わないか? 自分がいかに信用できる人間であるか、相手に信じ込ませるためには、多少の嘘や誇張も厭わない、そんな姿勢を求められる。

自分が勝手に作り出したイメージによってうんざりさせられている記録。

2022-10-05:断想

書くことと眠ること、一体どちらが大切かと言われれば、眠ることに決まっている。私の書くことにはなんの価値もない。しかし、私にはこの、なんの価値のないものこそが大事に思えたり、思えなかったり。まあ、毎日眠たいし、仕事も捗らないのだが、満足感はある。そうだ、私には満足感というのが重要なのだ。私は常に何かに押さえつけられていて、私の思うようになることは少ない。だから、私の中には何か、鬱積したものがあるのだ。

2022-10-06:断想

排除された人間は、歩かなければならない。眠りながらも歩き続けなければならない。どこへ向かうでもなく、歩いてゆかなければならない。どこへ行ったとしても、受け入れられることはない。だから、宙ぶらりんのまま、ここからそこへ、そこからあそこへ、そしてどこかへ……

2022-10-06:「死んでしまいたい」

習慣といわれて思い浮かんだのが「死にてえ」だった記録。

2022-10-06:断想

ひとつ前の記録の実践。

2022-10-06:断想

わたしはもう歩けないのだろうか? そんなことはない。わたしはまだ歩ける。「まだ嘆きがある」と言った人は線路に横たわって死んでしまった。わたしには嘆きもない。しかし、わたしはまだ歩いていられる。わたしはまだまだ歩いて行ける。

2022-10-07:断想

そんなことを言いながら、眠るぜ。コントやら漫才やらを聞いて、笑いながら眠るのさ、いつものように。そうすりゃこわい夢を見ないですむ。

こうやって現状のまま今に至る。という記録。

2022-10-07:断想

おれはおれを見ているおまえを見ているぞ、という記録。ちなみに今のアクセス数は1900を超えました。

2022-10-08:㌐がなくなったらどうすんの?

外をほっつき歩いて、歩きスマホとかしてたら「ギガ」なくなっちゃった記録。

2022-10-08:

広告が邪魔なのでProにしたい。けど、ポンと金払えるほど金持ちでもない。それに、なんか3か月くらい前には、Proに登録したらノベルティグッズがもらえたみたいじゃん。そん時にすればよかったな、今更登録するのもなんか乗り遅れたみたいでいやだな、なんておもったりする。

ノベルティグッズがもらえるときにProにします、という記録。

2022-10-09:

眠ります。明日のことは、まあどうにかなるでしょう。明後日も、明明後日も。そうやっていれば、人生だってきっと終わってくれる。とにかく、眠ります。眠たいうちに、眠ります。本当にそうするつもりです。眠れないわけない。こんなに眠たいのだから。眠りましょう。また明日。

こうやって毎日眠っているうちに、もう2022年が終わっちゃうなあ、という記録。

2022-10-10:いまさらONKYOのGRANBEAT(中古品)を買う

そんなに音楽聞かねえのに、という記録。

2022-10-11:断想

というか、自分の書くものが何であっても構わない。わたしはわたしの書きたいように書いて、勝手に苦しみ、勝手に救われる。いや救いもなにも求めていない。書きたいから書く。それだけだ。

ここにきてようやく「純日記」なるものと折り合いがついたような気がしている、という記録。

2022-10-12:断想

観光客のあふれるところに間違って出てしまって草臥れてしまった記録。

2022-10-12:断想

「この人生は生きるに値しない」

わたしはこの言葉が好きではない。なぜなら、まるで生きるに値する人生があるみたいに聞こえるからだ。

2022-10-13:断想

パヴェーゼの『月と篝火』を昨日から読み始めている。

という記録。

2022-10-14:断想

漠然と、私はなにか、なんらかの世界をつくる必要がある、との思いがある。しかし、なんらかの世界、とはいったい何なのだろう。そして、それはいかにして作られるのだろうか。ともあれ、私は何かを作りたいのだ。

2022-10-15:断想

今日は色々あったが、色々あったので、記録はしないでおく。

という記録。

2022-10-16:断想

読まれるか読まれないかとか、読む値打ちがあるものかどうかとか、そんなことが前もって分かるはずがない。それに、その記録が読まれないとしても、記録をつけるということ自体に価値があるようにも思う。

2022-10-17:断想

一瞬の輝きやら、それが残していった残像やら、そんなものが一体なんだっていうのだ。残像は錯覚に過ぎないし、その錯覚も、時間とともに消えていく。消えてしまったら、死んでしまったら意味がない。それを何か誤魔化して、いいこと言ったふりをしても無駄だ。

2022-10-18:断想

死は、ある意味では救済だろう。しかし、救われたって何にもならない。救いを求めて自殺をするのは、救われることの無意味さについてまで考えが至っていない、性急さによるものだ。

2022-10-19:断想

私はふと、私は何か素晴らしい仕事をやるべきであると思うことがある。そしてそのとき、私にはそれができる、という自信もある。あるのだが、私はそれで実際に何かをしたことがない。

2022-10-20:断想

パヴェーゼの『月と篝火』を読み終えてしまった。

という記録。

2022-10-21:断想

出されたお題について書くことは、自分の中の、思わぬ考えを見つけられることがあるので、たまにはそういうのも悪くないと思うのだが、考えているうちにお題が変わることばかり。

2022-10-22:断想

まったく、うんざりしている。いつだってうんざりしている。うんざりすることばかりだ。いや、何かがおれをうんざりさせるのではなく、おれが何もかもにうんざりしているのだ。

2022-10-23:断想

べつに、私の人生に誰がどんな評価をしようとも、それは私自身の人生の価値に何の影響も及ぼさない。というか、価値なんてのが、いかにも人間的な尺度でしかなく……いや、私とて人間なのだし、人間の尺度だって使って差し支えはないんだけど、まあ、そんなことであれこれ悩むのもほどほどでいい。

2022-10-25:断想

しかし書くためには、時間が必要だ。自分を見つめる時間が必要だ。しかし、それが今の私には欠けている。

2022-10-27:断想

ここ最近は手癖で書くことばかりで、自分自身の書いたものに飽き飽きしてきた。

2022-10-28:断想

私はこうした安心に引き寄せられて、沈み込んでいく自分を大人しく見ているわけにはいかない。私は、私自身の行末に無関心であり、しかも無関心であることを自分で覆い隠そうとしている。

2022-10-28:断想

忘れてたということは、どこか本気が欠けていたということだ。私は、なにかに本気になったことがない。本気になったことのない人間の人生というのは、そういうものだ。

2022-10-28:断想

1ヶ月くらい、書店に行くのをやめてみようと思う。書店へ行ったところで、そこになんの本があるのかは分かりきっている。

2022-10-31:断想

うまく立ち行かなくなったところで、「おれはここまでか」と簡単に人生を終えられるわけでもない。ならば、うまいこと、やっていかないといけないのだ。

11月

2022-11-12:断想

多くのものを取り落としながら、日々が過ぎていく。

2022-11-12:断想

私は判断を間違ってばかり。/私にとって /大切なものこそ後回しにし、 /不要なものに寸暇を惜しむ。

2022-11-12:断想

私は私でありたくないし、あなたにとってのあなたでもありたくない。

2022-11-24:断想

積極的に死を肯定的なものとしてみなそうとするけれど、いや、よく考えたらべつに実際にそれを実行するでもなく、本当は死を積極的に肯定してもおらず、ただただ、生きることへの否定が高まっているに過ぎず、それも積極的な否定ではなく、消極的な否定だ。

2022-11-30:断想

結局のところ、自分を理解し、支えることのできるものは自分自身しかいない。だからこそ、自分にとって一番大切なことについて、決して他人に判断をゆだねてはいけないし、それを悟られてるべきでもない。

2022-11-30:日暮而塗遠

私は、この世にいつまで経っても適応できないでいる。私は私という意識の生まれた時から、ずっとこの世に対して余所者であるという感覚を抱き続けており、どうすれば内側に行くことができるのかを考え続けてはいるものの、いつまでもわからないでいる。これに関しては、何も考えずに足を踏み出すのではだめだ。一歩間違えればキリストか、あるいはテロリストか。どちらも私の望むものではない。しかしいまのところ、無策に突っ込めばそのどちらかにしかなれない。

12月

2022-12-21:目的に向かう姿勢の純粋さ

私には、過去がない。ような気がしている。ずっと。私がそこにいた、という実感が希薄であるというか、少しあるとすら思われない。かつてはその道を毎日通っていた、ということを歴史的事実として認めてはいるけれど、それが私の事実であると言われると、そうなのかな? と。

過去がないというのは、とても心許ないことに思われる。もっとも、私には過去があった覚えがないので、過去がないことの心許なさってなんなのよと言われても、そいつを納得させることはできないだろう。この心許なさが事実過去の不在によるものであるかは、過去がある状態と過去のない状態の何方もを経験していなければ比較できないからである。だから、私が本当に言えるのは、こうである。「私は心許なさをつねづね感じている。そして、私には過去がない」心許なさと過去の不在との間に、なにか必然的な関係があると、私は言うことができない。言えるのは、私の中に、それらが同時に存在しているということで、その同時性は偶然的とも必然的とも断言しかねる。

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

目的に向かう姿勢の純粋さ

ここに何かを書くのなら、もっとちゃんと、自分の文章と向き合う時間を作りたい。なんて、思っていたのか、かねて思ってはおらず、いま思いついたのか、まあなんにせよ、うかうかしていると時間はほんとにすぐに過ぎていく。以前ここに何か書いたのが11月の末で、気づけば今年が終わろうとしている。今年が、なにも成し遂げることのできなかった今年が、終わろうとしている。何か書いておかないと、と思うけれど、ここに書き置いてきた自分の文章はどれも、とりあえず何か書いておこう、という思いが見えてくるような書き殴りばかりで、我ながらいい加減にしてくれと思う。

そんなこの文章も、なんの考えもなしに書き始められた。私は、ここで書き始めたとき、もっとなにか、燃え上がるものを持っていたはずなのだけれど、いまの私には何もない。

少し前、仕事帰りにライトアップされた寺社仏閣を見にいった。そこは、私の高校のすぐ近くだったのだが、懐かしさとかはなく、むしろ、ぜんぜん見覚えがなかった。それは夜だったから、ということだけで済ませられることなんだろうか。

私には、過去がない。ような気がしている。ずっと。私がそこにいた、という実感が希薄であるというか、少しあるとすら思われない。かつてはその道を毎日通っていた、ということを歴史的事実として認めてはいるけれど、それが私の事実であると言われると、そうなのかな? と。

過去がないというのは、とても心許ないことに思われる。もっとも、私には過去があった覚えがないので、過去がないことの心許なさってなんなのよと言われても、そいつを納得させることはできないだろう。この心許なさが事実過去の不在によるものであるかは、過去がある状態と過去のない状態の何方もを経験していなければ比較できないからである。だから、私が本当に言えるのは、こうである。「私は心許なさをつねづね感じている。そして、私には過去がない」心許なさと過去の不在との間に、なにか必然的な関係があると、私は言うことができない。言えるのは、私の中に、それらが同時に存在しているということで、その同時性は偶然的とも必然的とも断言しかねる。

なんて、私は少し気を抜くと、すぐにこんななんの生産性もない論理的のような見てくれの話を展開してしまう。中途半端に大学で勉強してしまったせいで、理屈にもならぬ理屈を捏ねるようになってしまって、そのせいで飛躍力を失った気がする。わたしの話に「ような気がする」が頻発するのも、そのせいだろう。小気味良い文章を書きたいのなら、煮え切らぬ口調はそこそこにして、断言で積み上げていくべきだ。私が書いた文章のうち、私が好きだと思う文章は、どれもそのような仕方で書かれたものだ。

過去のないことの心許なさの話だった。でもさ、過去がないことは心許ないことだってのは、直感的にも理解できる話じゃないかと思うのだが、どうだろう。だって、自分が何者であるかというのを語るとき、そこで語られることの大半は、自分の過去じゃないですか? 私はそう思うんですが。自分の過去にまったく触れずに自分について語れと言われて、どれだけ語ることがあるだろうか。いや、みんな語れるのかもしれないな。出鱈目言って悪かった。じゃあ、この心許なさってなんなのだろう。

私が文章を書くとき、書きはじめは何もないときが多いけれど、書いているうちに、その文章で何をしたいのかが浮かんできて、そこからは、それに向かって突き進んでいって、で、多くの場合は結果的にしたいことはできずに、ただボロボロになって尽き果てるのだけれど、じゃあ、この文章では私は何をしたいのかといえば、もう言うまでもないだろうけど、この心許なさの根元に迫ることで、しかし、目的をあえて明言したところで、それを遂げられるわけでもない。話の流れを断ち切ってまですることではないし、このパラグラフが入ったことによって、目的に向かう姿勢の純粋さはすっかり損なわれてしまって、もはや取り返しがつかない。

文章のなかでその目的を言ってしまったら、その時点で、その文章はその目的を果たす力を失う。私の文章はそういう特性を持っているので、私は自分が何を書いているのか、気がつく前に書き終えなければならない。

だから、この文章も第5パラグラフまでが私にとって意味のある文章で、それ以降は時間の無駄だ。時間の無駄なので、もうこれ以上はいいや。私は私に必要な何かが欠けている気がしている。そのために、今日もいや今年も、何にもできずに去っていっちゃった。さよなら。

今週のお題ビフォーアフター